2012年4月15日      復活節第2主日(B年)

 

司祭 セオドラ 池本則子

信じることと疑うこと

 「疑い深い弟子トマス」

 イエス様が復活されたその夜、恐れをなして1つの家の戸に鍵をかけて集まっていた弟子たちの真中に復活されたイエス様が姿を現されました。しかし、その場に弟子のひとりであるトマスは居合わせませんでした。そこで、その場にいて復活されたイエス様に出会った他の弟子たちが、トマスにイエス様が復活されたことを伝えました。ところがトマスはその話を信じることができず、イエス様が復活されたことを疑っていました。
 そのトマスがイエス様のご復活を信じることができたのは、次の日曜日でした。その日、再びイエス様は弟子たちが集まっているところに現れましたが、そこにはトマスも一緒にいました。そして、イエス様から十字架につけられた手とわき腹の傷跡を見せられたトマスはやっとイエス様の復活の出来事を信じることができたのでした。

 ところで、人を・人の言葉を信じる、あるいは人を・人の言葉を疑う、ということを考えてみると、そこには人間関係が大きく影響していると思います。もしお互いが信頼できる関係であれば、あるいは相手が尊敬できる立派な人であると感じ、自分にとって非常に好感を持てる人、その人のことが大好きで大切な人間である、と思っていれば、疑う気持ちよりも信じる気持ちが優先するのではないでしょうか。

 ただし、人間関係においてもちろん信頼し合い、疑いを持たずに信じていくことは大切なことであり、それによってより良い人間関係を築いていくのは必要なことですが、場合によっては全く疑いを持つことなくひたすら信じ続けることによって、真実が隠され本当の姿が見失われるという過ちを犯してしまう危険性があります。いろいろな人の話を聞き、冷静に客観的に判断することが求められるでしょう。

 しかし、イエス様との関係は違います。イエス様を尊敬し、信頼し、何もかも捨てて従ってきた弟子たちでしたが、十字架を前にして恐れをなし、イエス様を裏切って逃げ出しました。イスカリオテのユダはお金でイエス様を売り渡し、ペトロはイエス様のことを3度も知らないと言い、トマスはイエス様の復活を疑いました。そんな弟子たちに対し、イエス様は「あなたがたに平和があるように」と、どこまでも愛し、受け入れ、信頼してくださったのです。

 イエス様は私たちに対しても、私たちがどんなに罪を犯そうと、イエス様から離れようと、イエス様はどこまでも「平和があるように」と声をかけ、受け入れ、愛し、信頼してくださっているのです。私たちは、私たちをどこまでも信頼してくださっているイエス様のその愛に応えたいと思います。イエス様を通して行われている神様の救いの業を決して疑うことなく、どこまでも信じてイエス様と共に歩んでいきたいと思います。