2012年3月18日      大斎節第4主日(B年)

 

執事 アントニオ 出口 崇

残ったパンの屑を集めなさい

 5つのパンと2匹の魚の物語は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ 全ての福音書に書かれています。他の福音書では弟子たちが所持している(おそらく)食べ物を分け与えますが、今日のヨハネ福音書だけが、子どもが持っているパンと魚をイエス様が祝福されます。小さな存在が捧げる僅かの物を神様は祝福してくださる。ということが他の福音書より強調されますが、弟子たちをはじめ他の大人たちは何も持っていなかったのでしょうか?

 聖書の奇跡物語を合理的に解釈する方法があります。
 この5000人の給食の合理的解釈は、パンと魚を配り始めると、「子どもが差し出したんだから」と、人々は自分の持っていた食べ物を差し出し、分け始め、みんなが満腹になったという解釈でした。水の上を歩いたり、病を癒す奇跡はイメージしやすいですが、5000人が5つのパンと2匹の魚でおなか一杯になったという出来事はイメージしづらいので、この解釈を知った時は、とても分かりやすく「いい話だな」と思っていました。私たちも自分の物を分かち合うことが大切で神様はそれを祝福してくださるという教訓的な話にもなります。
 しかし、それだと神様の存在、イエス様の存在が希薄なものになってしまいます。
 やはり自分たちの持っているものだけでなく、イエス様は私たちが足らないもの、手に負えない出来事以上のことを為してくださいます。

 イエス様に試された弟子たちにとって、5000人(大人も子どもも合わせればその何倍)もの数の人の食事を用意する、パンを買うと言うことは、到底無理な話でした。自分たちの手に負えないので、イエス様に200デナリオン、当時の200日分の労働賃金でも足りない、と正直に答えます。人々を満腹させたのはイエス様でした。弟子たちは、イエス様が人々に分け与えられたパン屑を集めただけでした。
神様の豊かなお恵みは、私たち一人ひとりに十分すぎるほど与えられています。そしてその「残り物」を集めることが私たち一人ひとりの役割です。

 震災から1年がたちましたが、私たちの現状はまだまだ復興と言うには程遠い、「手に負えない」現実があります。今なおしんどい思いをされておられる方の心を癒すことは、私たちの持っている力だけでは到底出来ません。私たちが誰かを癒す、心を満たすのではなく、イエス様が一人ひとりに十分すぎるお恵みを与えてくださっている。私たちはそのお恵みを少しも無駄にならないように丁寧に集めていければと思います。