2012年3月4日      大斎節第2主日(B年)

 

執事 ヨハネ 荒木太一

聴くという受難
「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」【マルコ8:34】

 イヤな言葉です。この言葉を悪用して、苦しむ人に「上から目線の」無関心が教会の名で突き付けられることがあります。「それはあなたの問題、私は関係ない。自分の十字架を背負負いなさい」と。直接こう言われなくとも、同じことが起こります。それはまるで、横断歩道を渡ろうとしている幼子に向かって、道の反対側から、「さあ、自分で渡ってきなさい」と言うようなものです。

 苦しむ人に寄り添い、共に歩む実践は非常に困難です。苦しむ人の話を聴く時、つい「苦しみから逃げたい」という無意識が働き、解決策を探したり、沈黙が待てずに喋って励ましたりして、目の前で苦しむ人を受け止め損ねてしまいます。横断歩道を、その子の気持ちは無視して、手を強引にひいて渡らせるようなものです。

 だから聴くとき私は、自分の思いや解決策や作為を何も抱かないように、良い意味での受け身になろうと努力します。「さあしばらくは自分のことは忘れて、思う存分この人のペースで話してもらって、苦しい心を聴いて、受け止めよう」と踏ん切りをつけます。決して「この青信号で渡りなさい」と押し付けず、「今回はダメだったねー」でもいい、ずっとその子供の横にいるように。(子ども扱いはしません。ただ、苦しむ人は小さい人と同様に力が弱まっているのです。)すると、その人はポツリポツリと断片的な言葉で、苦しみやつらさを表し、重荷を一度おろし、そしてそれが十分に受け止められたと感じたら、自分の足に自然と力が入り始め、もう一度十字架を背負って歩きはじめられます。奇跡です。

 思えばどれだけ私自身も、同じように人に温かく聴いてもらって、恩師や友や家族に辛抱強く聴いてもらって、苦みにあっても歩き続けてこられたのか。そしてまた、沈黙と言葉の祈りの中でイエスに聴いてもらってきたか。

 苦しむ人を目の前にして、「自分がなにかをする、してあげる」という意図をイエスは捨てられました。ただ受け身に目の前に広げられた苦しみを受け止められました。イエス様は人の苦しみに傾聴し、受け止め、それゆえに苦しまれました。

 イエス様の苦しんだのは、他人の苦しみです。あなたの苦しみ、私の苦しみです。人の苦しみを苦しむ。そのためにイエス様は自分を捨て、思いも、意図も、平安も捨てて死ぬ苦しみを引き受けられたのです。そうして自分が無くなることではじめて、命の奇跡が起こるのです。