司祭 エッサイ 矢萩新一
「これに聞け」【マルコによる福音書9:2−9】
今週の水曜日からは大斎節が始まります。大斎節の間私たちは「大斎克己献金」をお献げいたします。今年は、小笠原聖ジョージ教会の宣教協力の為や秋に開催予定の宣教協議会、中高生の平和教育支援の為、その他にも国内外の様々な宣教活動の為に献げられます。私たちのわずかな献げものが集って大きな宣教の働きの為に使われて行きます。
大斎節は、イエスの十字架のみ業に従って、私たちが受けた愛の大きさをもう一度思い起こし、それを隣の人に伝え、実践していくことを意識する季節です。今日の福音書では、イエスの変容の物語が記されています。ご自分の死と復活を予告された6日後、高い山に登られたイエスは、3人の弟子たちの前で真っ白に輝き、栄光の姿を見せられました。その時、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」との神さまの声がありました。この「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という言葉の中に、私たちが大斎節の間、大切にしなければならない福音のテーマが示されています。
それは、イエスに聞き、従うということです。イエスならこの時、どのようにされるだろうかと考えることです。
雲の中から聞こえた「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声は、イエスがヨハネから洗礼を受けられた時にも天から聞こえてきた言葉です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、神さまがイエスに語られた言葉でしたが、今度は弟子たちとイエスが一緒にいる所で「わたしの愛する子。これに聞け。」と、神さまが私たちに語られます。
イエスは6日前、ご自分の死と復活を弟子たちに予告し、「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言われていました。唐突に「自分の十字架を背負って従いなさい」と言われても、何のことか分からず弟子たちは戸惑ったと思います。そして、今度は天からの声がして、「これに聞け」と言われるのです。「神さまの愛する子であるにもかかわらず、人間を愛するがゆえに、人々から非難され、ねたまれて十字架に架けられて行くイエスの人生に聞き、学びなさい」というのです。
数年前、朝日新聞で、「沖縄を語り継ぐ」というコラムが連載されていました。そこには、本土の人々が沖縄の人々に押し付けてきた様々な苦しみが語られていました。その次の連載として、「戦争を語り継ぐ」と題し、アジアの人々が65年前の戦争でどんなことを強いられて来たのかが語られていました。私たち聖公会も、かつては「天皇の為の祈り」や「大東亜戦争の為」に祈りを献げていました。いくら国体と言う名の下であったにせよ、神さまの愛されている命を守るという教会の使命を果たせなかったことを忘れずに記憶し続けなければならないと思います。しかし、今日本の憲法では、国民投票によって、平和の憲法9条を変えることが出来るような仕組みがすでに出来てしまっています。自衛隊を海外で戦争のできる軍隊にすることが出来てしまい、過去に戦争の被害に遭った人たちの心をもう一度踏みにじってしまうことになりかねません。イエスならこんな時どうするでしょうか。神殿で商人たちの机をひっくり返したように、国会議事堂の発言台や首相の椅子をひっくり返してしまうかも知れません。
さて、今日の福音書のテーマ、「神さまの愛する子、イエスに聞き従う」ということの意味、それはなかなかすぐに理解できないかも知れません。すぐそばにいた弟子たちでさえ、イエスが実際に十字架に架けられ、復活された時に初めて、語られた一つ一つの言葉の意味や、示して下さった愛の大きさがわかり始めました。私たちも例外ではなく、忘れやすく、物事が理解できるまでに時間のかかることが多くあります。
だからこそ、毎年毎年の教会暦を守りながらイエスの生涯をたどり、今年も額に棕櫚の灰で十字架を記し、大斎節の時を過ごそうとしています。私たちキリスト者の使命は、イエスの十字架の死と復活、示された行いや言葉を語り継ぎ、実践していこうとすることです。
その為に、何度も何度もイエスに立ち返ること、私たち一人一人は神さまから愛されている大切な存在なのだということを繰り返し確認していくことが、イエスに聞き従う私たちの信仰であることを今日の福音書から学びたいと思います。
水曜日から始まる大斎節の間、イエスの声に聞き従う、やわらかい心とやさしい愛の眼差しを忘れずに過ごしていければ素敵ですね。