2012年2月5日      顕現後第5主日(B年)

 

司祭 マーク シュタール

 先週、三日月が笑っている口を見ました。私は今日のみ言葉を読み、その三日月が神様はいつも私達とともにいる約束を思い出した。今日の旧約聖書【列王紀下4:8〜37】ではエリシャはシュネムの女を助ける気が沢山あるような印象を受けます。エリシャは彼女が子どもを生む約束をします。その後は産まれた子が突然亡くなった時に、エリシャは神様に祈って、その子は生き返りました。ここで、神様は自分を信じないものでも癒すことを示してくれています。
 つぎに、使徒書【コリントの信徒への手紙I9:16〜23】では、パウロはいろいろな方法をあげますが、福音を広めることが自らを救う為にもっとも重要であると言いました。今日の箇所では、パウロが救いのために、“ユダヤ人のようになりました、律法を持たない人のようになりました、弱い人のようになりました”と。福音のためなら、私はどんなことできます。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです(23節)。
 福音書【マルコによる福音書1:29〜39】ではイエスは沢山の人を癒します。イエスはあまりに布教に成功したので、別の地方、ガリラヤの小さな村の会堂で説教することがはじまります。イエスは言われた:“近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。その為に私は出て来たのである(38節)。”
 ここから、何を学ぶことでできるでしょうか? シュネムの婦人の話では、神様は無条件に誰でも癒すということ; パウロは、神様の御心はおこなうには、何とかして何人かでも救うためです; そして、イエスが出身ナザレという所だけではないし、知り合い人だけでもない、もと広い所、そしてだれのひとでも癒すことのために出て来ましたという話;全ての話は清められるためにという共通のテーマがあります。このテーマは最初に受ける印象以上にimpactを持って、私達に迫って来ます。
 「なぜそういうか?」と言えば、イエスは単に病を直しただけではなかったからです。イエスは人間が持つある習性を打ち砕こうとされたのです。それは他の人にレッテルを張るという習性です:「私達とあの人達」「私達の部族とあなた達の部族」「清いものと汚れたもの」「日本人と外人」「白人と黒人」女性と男性」エデンの園の時から追放されたのは、“無知と知恵の獲得”が原因でした。カインとアベルは“ねたみと無邪気”の違いを示してくれます。ノアの話は“従順と大柄”ヤコブとエサウは“悪知恵と肉体的強さ”イザクとイシュマエルは“好きと嫌い。”人間が自分と他者を区別するのは自然なことかも知れませんが、きっとイエスは布教活動をするにつれ、それを見聞きすることが堪え難かったのだと思います。
 そうでなければ、なぜイエスは“口に入るものは人を汚さず、口からでて来るものが人を汚す”(マタイ15:11)と言ったのでしょうか?また、安息日に突然人を癒したり、社会の底辺の人に直接話しかけたのでしょうか?そのメッセジは癒しを必要としている人を癒すことは、神様に近づくことで、人を清いものと汚れたものとに分け隔てしている人より、余程神様に近い人なのです。
 イエスの時代、宗教は人を差別する人にとっては、都合の良いものだったのです。イエスは宗教を信仰に変える努力をしました。差別されたものも、皆、全て、神の子とし、同じ食卓を囲むためです。救いがあるかないかは、人間がかってに推し量るものではなく、それぞれの心にある宝であり、神様のみ言葉によってその救いの存在を有良かにされるのを待っているのです。このメッセージは私達が三日月を見ることと似ています。三日月は珍しいものではありません。でも、やっぱり、美しく、はっとさせられます。イエスは私達は兄弟姉妹を良きに着け、悪しきに着け、特定の種類にくわけする、差別する習性をなくさなければならないということです。これらの悪い習性は私達を無知、強欲、憎しみから逃れられなくしている。それは絶対に辞めなければ行けないとイエスが歩いた道を自らも歩いたのです。神様が真実、愛、光; そのものであるという意味は、私達の世界においてなにが真実、愛、光であるかを知っておられたということです。私達もなにが真実、愛、光であるかに注意をはらうことで私達はパウロが言う、ユダヤ人のようになりました、律法を持たない人のようになりました、弱い人のようになりましたということになるのです。
 微笑みの三日月。神様のみ言葉がはじめは私達の世界からかけ離れているように見えた; 実は私達の世界の根幹をなすことをとうくより見つめていました。
 主に感謝