2012年1月29日      顕現後第4主日(B年)

 

司祭 クレメント 大岡 創

「イエスさまの権威」【マルコ1:21〜28】

 この箇所は会堂で汚れた霊に取りつかれていた男をいやす場面が描かれています。これを見た人々は驚いて「権威ある新しい教えだ」と言いました。権威といえば社会的な地位がある、発言力があることを連想する、あるいは上から押さえつけられている状況をイメージするかもしれません。でもここで使われている権威という言葉はそれだけではないようです。存在の本質が今は分からないけれど、外側に現れることによって明らかになってくるという意味が含まれています。イエスさまの権威とは「神のしもべ」であることの現れ、それが権威なのでしょう。それに対して律法学者はどうでしょうか。表面的な権威に見えます。人からいつも良く思われたい、見られたい努力をする。それが時に見せかけであったりする。それが気遣いであったりするわけです。それがないと逆に「もっと気を遣ったら」とか「気配りを」とか言われたりいたします。これは私たちも思い当たることはないでしょうか。聖職者の身につける祭服、カラー、座る椅子・・・これらが権威の保証ではありません。外部から見ればこれらを身につけると時々偉そうに見えたりするのかもしれません。
 以前いた現場でのことです。わたしが幼稚園の現場に立つときいつもカジュアルな服装のままでいるという印象からでしょうか、気心知れたある取引業者から「先生、もっとカラーをつけて立ったらどうですか」といわれたことがありました。(余程だらしなく見えたのでしょう)おそらく、本人にとっては施設の責任者として身なりを整えて権威をもてと忠告したかったのだと思います。クリスチャンでない人からの指摘に恐縮した次第です。でも権威とはそのようなことで表わされるものではないと思います。
 福音書では人々は今までとは異なる権威を見たとあります。イエスが一人の男から「汚れた霊」を取り除き癒しと慰めを与えたことを「教え」だと福音書は告げています。「教えを聞く」ことだけでなくイエスさまは「おこない」を伴った「神のしもべ」である姿を示されました。それは「口先だけで指一本触れようともしない」律法学者たちの態度を強く戒められることにもつながります。しかし、何か奇跡を起こして驚かせることを考えておられたのではなく「この人が自分の命を自分で生かせるようにしたい」からでありました。
 やり直していけるきっかけを得ること。そのための手助けになる言葉をかけてもらうことは誰でも嬉しいことです。人が本来の姿を取り戻して生きることを妨げるあらゆる力を退けることに真剣に向き合おうとされた。それが「教え」だけでなく「おこない」となって人々の救いを伝えられたのが権威あるイエスさまの姿です。時代は変わっても「人が人らしく生きる」ことを求めることにおいてはいささかも変わりはないはずです。
 形式とか枠組みは教会生活にとって必要なことですが、私たちはその枠組みの中にいるから信仰が与えられているのではなく、一人ひとりが神さまのみ手の中に包み込まれて初めて生きることができるものです。そのことに全生涯をかけて証ししてくださった主に委ねて、抱える課題に立ち向かっていくことができますように。