司祭 ヨハネ 黒田 裕
「おわり」がはじまり【マコ13・33−37】
今日の箇所の中のたとえにあるように、終わりの時までの間、神さまは私たちに「仕事」を割り当てて責任をもたせる、と言います。ここでの「仕事」は「賃労働」よりももっと広い意味で「業(わざ)」「行ない」を意味しています。そして、「責任」の別の意味は「権利」「権限」「(ある事をする)自由」になります。つまり、神さまは私たちにある行ないをする「権限」や「自由」そして広い意味での「仕事」を私たちに与える、委ねる、というのです。
ところで私の青年時代に「自分探し」がブームのようになったときがありました。「どう生きるか」との問いが、「本当の自分とは何か」という形でなされます。確かに、深い自省・内省は大切ですが、しかし、この作業はともすると「他者」が忘れられて、自分のことばかり考えることにつながります。また、自分のなかに大したもの(才能など)がなくて、カルト的なものに誘われたり、あるいは、虚無に陥ったりします。ありのままの自分が受け入れられなくて、いつも本当の自分は他にあるのではないかと、虚しいものを若い日の私自身も追いかけていたような気がします。しかし、聖書はこの件に関して非常にユニークです。「仕事」(どう生きるか)が与えられる、というのですから。こんな幸いなことはないのではないでしょうか。もう私たちは何か別の虚しいものを追いかける必要がないのです。
今日からB年の日課がスタートします。教会の暦は新しい年が始まるのに、なぜこの箇所―「終わりの時に関する箇所―が選ばれているのでしょうか。実はキリスト者にとっては、おわりがはじまり、なのです。終わりを待つところから、歴史に終わりがあるということを知ることから、キリスト者の生は始まるのです。あるいは、人生の終わり、死を知ることから信仰がはじまる、とも言えるかもしれません。最初のキリスト者たちも、イエスさまが再び来られるのを待つことからはじまりました。
教会に属する私たちにとって新しい年がまた始まります。終わりの時を待つことから、私たちの本当の生が始まります。私たちには、何が委ねられているのでしょうか。教会という、日本社会における小さな群れには、何が使命として与えられているでしょうか。
この1年を、私たちは、私たちに何が委ねられているか、を問うことから―神さまが私たちに問いかけておられるのですが―、そのことを心に留めることから始めたいと思います。