2011年11月20日      降臨節前主日(A年)

 

司祭 ヨハネ 古賀久幸

最も小さい者の一人にしなかったのは【マタイによる福音書25章31−46】

 クリスマスの足音が聞こえる季節になりました。冬は人が恋しくなるのでしょうか。ソナタも冬が似合いますね(古いか)。学生時代、事故で足を骨折し年末に入院手術しました。クリスマスが終わると大部屋の患者さんたちは一時外泊が認められ自宅でお正月を迎えますが、家が遠かったため6人部屋にぽつんと残り寂しい元旦の朝を迎えました。ところが一人の友人がワンカップと彼の故郷、韓国のおせち料理を携えて訪ねてくれたのです。思いもよらない訪問に飛び上るほど嬉しいお正月でした。「小さいときから悲しく寂しい思いをしたから気持ちが良くわかるよ」と語る彼と病室で酌み交わした酒の味は忘れられません。
 クリスマスは神様が必ずおいでになられるという約束の叶うときです。トルストイの名作。靴屋のマルチンはクリスマスにイエス様から訪問の約束をしてもらっていました。彼はおもてなしの準備万端整え朝を迎えます。ところが疲れた旅人、貧しい子連れの婦人、子どもはやってきたのですがお目当てのイエス様は来ずじまい。夜、失意のうちに床に就いたマルチンにイエス様がもてなしへの感謝の言葉をかけられたのです。お分かりでしょう。イエス様は最も小さい者の姿となられおいでくださっていたのでした。クリスマスは私たちのところにイエス・キリスト=神の愛がおいでくださるとき。それによって、私たちは深く慰められ、喜びに満たされます。そして同時に神の愛は最も小さい者として今、私たちの前においでくださっていることを深く知るときなのだと思います。