司祭 バルナバ 小林 聡
「待つ時の備えの油とは?」【マタイ25:1−13】
イエスさまが再び来られる時を待つという今日のたとえばなしは花婿を待つ花嫁にたとえられています。花嫁はここで灯心が消えないように油を備えて待っているのですが、今日は備えておくべき油についてここで思い巡らしたいと思います。
油は聖書の中では人を癒す薬として描かれてきました。油は人を守り人を元気づける薬であり、王になる者に油を注ぐということはその人に神のみ守りと力づけを願うと言うことを意味しています。又イエス様に香油を注いだマリアの話も有名です。今日のたとえばなしでは花婿を待つ者が大切な備えとして油を用意しておく事の重要性が語られています。油は大切な備え、待つ者の心を表しています。花婿の到来を待つことの出来た花嫁は、心の備えが出来ていたのでした。
私たちにとって待つ時の備えとしての油とは一体何でしょうか。油の持つ象徴性は先ほど見たように傷口をやさしく包み込み、癒し、回復へと導くやさしさではないかと思います。
私は昔、首の筋を痛め、文字どおり首が回らなくなったことがありました。その原因が何処にあるのか色々悩みましたが、良く分かりませんでした。只の寝違えと言えばそれまでですが、きっと色んなものが重なって首が回らなくなったのだろうと思うのです。小手先の治療では何もよい方向に向かわないことを教えられました。毎日電気を当て、凝りをほぐしていき、十日後に首がまっすぐになってきました。即効薬はなく、今まで積み重なってきたものを少しずつときほどいていくといった感じでした。おそらく、過度のストレスを自分に与えていたのかもしれません。首の痛みは突然来ましたが、それを避ける備えは日常の些細なことから出来たかもしれません。現代社会に生きる私たちは日々様々な問題と直面しており、「突然」何かが起こるという経験が少なからずあるのではないでしょうか。その時に備えてこれだけをやっていれば良いという訳にはいかないかもしれません。
そんな時、普段からお互いがつながりの中で生きているという事を意識する事は大切な事かもしれません。今日のたとえ話は、私たちにとっての備えの油とは、一人一人をバラバラにしている隔ての中垣に潤いを与え交わりを回復する、潤滑油ではないかと思うのです。現代の私たちはその潤滑油に自らがなっていくことをイエス様から求められているような気がします。そして人と人との間で生き、自らを油として私たちのために献げてくださったイエスさまに私たちが備えるべき生き方が示されているように思います。