司祭 パウロ 北山和民
聞け、ヤコブの家の頭たち、イスラエルの家の指導者達よ。
頭たちは賄賂を取り、祭司たちは代価を取り、預言者たちは金を取って教える。しかも主を頼りにして「主が我らの中におられる。わざわいが我々に及ぶ事はない」と(ミカ3:11−)
【3月11日以降の預言書の読み方】
この預言者ミカのいわゆる「災い預言」は、あの3・11以後新しいものとなり、本日のマタイの学者批判とも重なり、実に深くわたし達「指導的立場にある信仰者」を糾弾します。起こりえないこと、想定外のことは、在り得ることになり、あり得ることは避けられないことになった、認識論上の変換にわたし達は耐えられるのでしょうか?
特に、福島の原発事故以来、教会は「預言者職務」をどう行なうのか、何によって「世の光、地の塩」になるのでしょうか? もし今ここでこの課題に対して、「預言者的でない(社会と教会を分別)」なら、「冷えない冷蔵庫」、わたし達の教会はキリストの教会ではなく、ただの「箱」、「自己満足の集会」なのです。
「廃止だ。このままでは滅びる」とか「原発は存続させろ」とか言うのではなく、(東京の権力者が信じる神ではなく)、福島の子ども達(もだえている神)への「回復」を語るのが預言者の役目です。そしてその回復はわたし達の「罪のゆるし」という道筋しかないのだと発信するのです。ゆえにまず歴史と現実を正しく見る(ブッダの言う正見、ジャーナリストのような)曇りのない目と勇気こそ預言者(教会)には求められるのです。
本日のみならず、主日礼拝の聖書日課には常に、教会を健康に、即ち預言者的にしてくれる力が潜んでいます。深く黙想しましょう。
【預言者の系譜につながる礼拝をしよう】
そして、「代祷」に心を込めましょう。教会の祈りは本当に「小さくされた人」と連帯する祈りになっているか、心を集中させましょう。わたし達の教会の主は「預言者によって語られた主」(ニケア信経)なのですから。