2011年10月9日      聖霊降臨後第17主日(A年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

ふさわしい礼服はどのようにして手に入れられるのか
【マタイによる福音書22章1−14節】

 信州の松川町にある「イエスの小さい姉妹会」というカトリックの修道会でリトリートのため2泊3日を過ごしたことがあります。中央自動車道のインターチェンジからさらにかなりの山奥に入った所に修道会はありますが、そこで3人のシスターが共同生活をし活動していました。
 聞いたお話と資料によりますと、「イエスの小さい姉妹会」は一箇所で3・4人のシスターで活動していて、世界64カ国で約1000人の修道女が活動しています。その活動の場は立派な修道院の建物ではありません。大都会のスラム街であったり、香港では水上生活者の居住区であったり、日本では被差別部落や山間部の貧しい農村であったり、社会で最も貧しく低い所に生きざるを得ない人たちの中に混じって生活を共にします。お世話になった修道院では、一人は自分たちが生活していくのに必要最低限の生活費を稼ぐために近くの社会福祉施設で働き、他のシスターは地域の人たちの生活に混じりこんで、時にはお年寄りのお世話をしたり、助けや援助を必要とする人たちのために活動するなど、その地域に溶け込んで活動をしていました。でも、このように受け入れられるにはかなりの時間と忍耐と努力が必要だったようです。
 毎日のシスターたちの生活の中心には祈りがあります。生活の場は農村の古い民家の建物でその8畳ぐらいの部屋を礼拝堂にして朝・夕の礼拝が守られていました。都会のような騒音など全くない深い静寂の中で祈りがささげられていきます。その中で交唱される詩篇や朗読されるみ言葉、唱えられる祈りの言葉は、おいしい料理をよく噛んでゆっくりと味わって楽しむように、ゆっくりと、味わいながら、心に飲み込んでいくように唱えられ、とっても感動しました。聖ベルナルドという人は「食物が口に心地良いように、詩篇は人の心を楽しませる」という言葉を残していますが、シスターたちはこの祈りの時を本当に喜び楽しんでいるようでしたし、何よりもそのことに日々の生活と活動が支えられていることを思い、信仰の力の恵みを改めて思ったものでした。
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」マタイによる福音書4章4節のみ言葉です。私たち人間が生きていくためにはこの肉体を養うパンも必要です。でも決してそれだけではないことをこのみ言葉は語っています。神様に造られたものとして私たち人間が人間らしく生きるためには、口から入る食べ物だけではなく耳や目から入って心を養ってくれる命の糧も必要としています。そしてそのように生きている人たち生かされている人たちがいる。イエスの小さい姉妹会のシスターたちとの出会いの中でその事実を見た思いがします。シスターたちはあの独特の服をいつも着ていますが、服装そのものよりも、み言葉と祈りを楽しみとし、その中で心動かされ、神様の思いにかなった生き方へと促されていくことこそが、ふさわしい礼服を身にまとうことではないでしょうか。
 ふさわしい礼服とは何かについて、「まことの悔い改め」「愛すること」「感謝」「キリストに結ばれた喜びを分かち合う交わり」など様々な言葉で表現されますが、要は神様の招きと神様の愛に応えていくことだと思います。み言葉と祈りに促されて応えていってこそ、最も重要な掟である「神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」ことも本当の意味で生きてくるのではないでしょうか。それは小手先であったり自分の努力だけでできるものではないと思います。この意味で「ふさわしい礼服」を身にまとわせてくださるのも神様のみ業です。そして教会はこの神様の招きにふさわしい礼服を見出すことのできる出会いの場でもあります。