執事 アントニオ 出口 崇
自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。
10年以上前、海外で「ぶどう園」ではなく「りんご園」で収穫のアルバイトをしたことがあります。
朝から夕方まではしごを使ってりんごをもぎ取り、大きな木箱に入れていきます。1箱いくらのアルバイトで、「今日は2箱だった」「俺は4箱収穫した」などと晩に宿の住人たちと報告しあいました。
自分の労働に見合った対価があるからこそ頑張れた仕事でした。
イエス様は、最初から1日1デナリオン(1日生活するのに十分な額)の契約をしているのに、長時間働いていた人が文句を言うのはおかしい、というたとえ話をされます。
一生懸命頑張って働いている人にとっては、何だか労働意欲がなくなりそうな話ですが、自分自身が身体的にも、精神的にも頑張れない時、それでもイエス様が呼びかけてくださっている、神様からの十分な恵みを約束してくださっている。
このことは私たちにとって大きな励ましです。
私は神様から1デナリオンを受け取るだけの生き方をしているか、と問えば「はい」とはいえません。しかし、自分のことは棚に上げ、「なぜあの人も1デナリオン?」と心の中でつぶやいている時があります。
今、先日の台風12号で被害に遇った和歌山県の新宮市に来ていますが、水の大切さを改めて思いました。
断水が起こり、復旧のめどがつかなかった当初、市役所の前で給水車による水の配給がありました。たくさんの方がポリタンクやバケツなどを持って並んでいましたが、年配の方や、お仕事をされている方は並んで重い水を運ぶことが出来ません。
炎天下の中、長時間並んで水を得ていましたが、並ぶことの出来ない方には、役所の職員さんや、近隣の方々、ボランティアさんがそれぞれの家に必要な水を配っていました。
台風によって多くの尊い命が失われ、今なお行方不明の方もおられますが、断水で飲み水が無く亡くなった方はおられませんし、並ばなかった(並べなかった)方が水を得ることに誰も文句を言いません。
1デナリオンとは、労働の対価の賃金というよりは、生きていくために必要なもの、本当に「無いと生きていけないもの」なのかもしれません。
水もそうですが、イエス様との繋がり、神様の恵み、赦し、慰め、癒し
私たちが「無いと生きていけないもの」は、イエス様が私たちの代わりに対価を払ってくださり、常に用意されています。