執事 マタイ 出口 創
『ある死刑囚の物語』
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイによる福音書18章22節)
「掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。いと高き方の契約を忘れず、他人のおちどには寛容であれ(シラ書27:7)」。久しぶりに大相撲がテレビ中継された7月場所、横綱白鵬が取り組み前に、既に汗だくになっているのにそれを拭かないのを観た複数の視聴者から、苦情があったそうです。「見てるだけで、暑苦しい」と。今のご時世は、そんな細かい事まで批難されるような、息が詰まる時代なのかと、恐ろしく感じました。
神様の寛容の中を生かしていただいていることを忘れて、自らの正義を強調するのは、自らを神とする事であって、十戒の第一、「あなたはわたしの他に、何ものをも神としてはならない。」を冒涜するものだと思います。
現代の日本において、ある刑事被告人が裁判で死刑判決を受け、それが確定し、死刑囚になったとします。ところが裁判終了後、収監されることなくすぐに釈放されます。当然死刑囚は、何が起こっているのか分からずに呆然とします。そして、そばにいた裁判所のスタッフに尋ねます、「何故わたしは収監されて、死刑が執行されないのですか」。スタッフは答えます、「あなたの死刑執行は既に終っている。2000年前にエルサレムで執行された、イエス・キリストの十字架刑がそれだ」。
正義の神であるが故に罰するものを罰しなければならないと同時に、赦しの神であるが故に赦したい。そのためにご自身と等しい神であり、私たちと等しい人間である、神さまの独り子イエス・キリストを十字架で処刑させ、昔も今も将来も、神さまを怒らせる私たちの罰を、イエス・キリストに受けさせたのです。七の七十倍までも赦すのは、私たちではなくて、神様が私たちになさろうとしていることです。イエス様と神さまの心と体の激痛に、そして、そこまでしてでも私たちを赦したいという強い思い(=愛)を素直に感謝できればと思います。