司祭 ヨシュア 柳原義之
名もなき牧師の石叫
「大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。
より偉大なことができるように健康を求めたのに
よりよきことができるようにと病弱を与えられた。
幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるように命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。
上記は『苦難にある者たちの告白』と題され、ニューヨーク大学リハビリテーション病院の壁のプレートに刻まれた作者不明の詩です。きっと多くの方々がご存じで、この詩から慰めを得たり、力づけられた人も多いことでしょう。
私たちは多くのことを神様に願います。上の詩のように、能力、健康、富、力・・・、それらは多くの場合、どのように求めたものを用いるかは別として、自分の意のままに行動するためのものです。しかし、それらが与えられない時、様々な言い訳をして、自分以外のものに責任を押し付けていることが多いと思います。
この主日のペテロもその一人と言えるかもしれません。イエスの受難の告白の前に、そうであってもらってはならない!とイエスを「わきへお連れして、いさめ始め」ました。ペテロの思いはイエスの持つ素晴らしい力が、みすぼらしい姿で終わってはならない、その力でもっと多くの人を癒し、幸せにしてほしい、という思いであったかもしれませんし、弟子集団のトップとして胸を張り続けたかったのかもしれませんが、いずれにせよイエスの思いを超えての行動でした。神の思いよりも人の思いが優先してしまいました。旧約聖書日課のエレミヤも同じような思いの中でうめいています。そして聖書の中にはヨブやヨナに代表されるように多くの預言者が神の思いと自分自身に課せられた役割のギャップで苦しんだことと思います。
解決しなければならない課題がなかなか進まないとき、自分では特に苦しみもせず、そのようなふりをしながらたくさんの罵声を浴びる中で、私たちは焦り、時には無気力になり、時には憤り、時には責任を押し付けながら歩んでいますが、もしかすると「答えがない」ことそのものが、今の時点においての神からのメッセージであるかもしれません。「答えのない中で苦しみ、うめき、よくよく考えること」が今求められていることかもしれません。
初めの詩のように、求めていたものと全く逆のものが与えられた時に、それを神の恵みとして受け取る用意があるか否かが問われているような気がします。
神の意にそわぬものでありながら、この日を生きている。かなり重い十字架ではありますが、今週もあの峠を目指して歩けるところまで歩いてみませんか。神がよしとされれば明日もあるかもしれないし、神がここまでとされれば、その十字架が次の人の道しるべとなるかもしれません。