司祭 クレメント 大岡 創
「み手にゆだねて」【マタイ14章22〜33節】
「五千人の養い」に続くイエスさまの奇跡物語です。この湖上を歩くイエスさまの物語も初代教会において伝承されてきたと言われています。当時の教会の人々が自分たちの現状を踏まえて「教会とは何か」と問い続けた信徒の自己理解が示されています。冒頭にある「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ・・・」(22節)とは自分の勝手は思いでなくイエスさまの促しによるものという意味です。「舟」とは教会を、「海」とはこの世を象徴する言葉として用いられています。教会とはこの世の荒波を渡りゆく弟子たちの群れであり、さらにはこの世の風向きに逆らって進む舟というイメージが描かれています。
考えて見れば「教会の宣教」とは、この世の課題のある所、光の当たりにくい所、波風が立っている所にこそ、風に逆らっても進んでいく、取り組んでいこうとすること。そうやってイエスさまに従う者の群れとなっていくのではないかと思わされます。しかし、逆風の中で弟子たちは不安と恐れのあまり叫び声をあげます。現実にはよくあることです。わたしたちも「いつも主はともにおられる」と頭では理解していても困難に遭遇したとき動揺を隠しきれず、主に委ねることができなくなることがあります。でも、心の動揺や不安は、わたしたちの人生のなかでさまざまな課題に向き合うときに必ず起こってくるものです。逆に、わたしたちの教会は、わたしたちの心が本当に恐怖に怯えるほど、この世の波風と、人生や社会を取り巻く課題と取り組むような生き方をしているかどうかを振り返ってみたいと思います。そのような中、意表をつくような仕方で来られ、わたしたちに語られた「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)のみ言葉の中にすべての人々に向けたイエスさまの希望のメッセージが託されています。
この奇跡物語の分かれ目をここからです。み言葉に励まされたペトロは主の力を頼りに近づこうと試みますが、神さまの力の大きさを掴みきれず、沈みかけます。ここにじっと「舟の中に留まるのか」それとも順調にはいかないかもしれないけれど、主の言葉を支えに足を水の上に「勇気をもって一歩踏み出すのか」という二つの姿が示されます。ここにも私たちの教会の姿が見えてきます。当時の教会もおそらくこの課題を負っていたのでしょう。現実の課題に向き合いつつ、もがきながら、それでも進んでいこうとする自分に正直な姿勢は今の時代だからこそ、もっと評価されていいのではないでしょうか。神さまの前にまったく無力な状態に置かれた自分に神さまの助けを求める祈りです。わたしたちの教会や教区には、神さまから委ねられた宣教の働きが求められています。いろんな困難にぶつかり挫けそうになるときにこそ、イエスさまはそこに道を開いてわたしたちに近づこうとなさいます。ペトロへの「来なさい」(29節)という言葉はわたしたちにも向けられています。日々のありのままの人生の迷いの中で、葛藤しながらも徐々に成長していける信仰を求めたいものです。吹きすさぶ嵐の恐ろしさに圧倒され、思わず、神さまから目をそらしてしまいがちな自分自身を追い立てながら、神さまの方へ心の目を挙げようとすることを努めて大切にしていきたものです。