司祭 ヨハネ 黒田 裕
「驚く」霊性【使徒言行録2:1−11】
聖霊降臨の出来事には、現代人ばかりでなく当時の人々の中にもこれを訝しく思う人たちがいたようです。「『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」(2:13)からです。こうした冷笑的な姿勢は、今の日本社会の風潮の一つに通ずるところがあるかもしれません。しかし、このようなスタンスは、聖霊が降って誕生したと主張する教会の立場とは正反対のものであることに違いありません。では、こうした姿勢と対極にあるのはどのような姿勢なのでしょうか。
私は、それを考える時に、あの有名な、アメイジング・グレイスを思い浮かべます。アメイジング・グレイス―その意味はご存知の通り、「驚くべき恵み」「あきれるほどの(すばらしい)恵み」です。それはまた上からの恵みを大らかに喜んで受け取る、そういう「驚き」です。
確かにそうなのです。イエスさまの十字架と受難によって私たちの罪が贖われた、イエスさまが復活され、私たちが新しく生きることを赦された―。これは驚くべき恵みではないでしょうか。聖霊が下されて、教会が誕生し、2000年の時を越えて、今も福音を宣べ伝えている。ただのウエファーとぶどう酒とが、恵みの器に用いられ、目に見えない恵みのしるしとされる―。驚くべき業ではないでしょうか。
「聖少女ポリアンナ物語」では、父親を亡くし叔母のもとで暮らす幼い主人公は「ヨカッタ探し」をします。それは、一日のうちで良かったことを見つけていく、というものなのですが、これによって彼女は結果的に街の人々を幸福にしてゆきます。そもそも子供は「驚く」天才です。毎日幼稚園で子どもたちを見ていてもそれを感じます。イエスさまの、「子供のようにならなければ、決して天国に入ることはできない」(マタ18:3)は、子供のもつこの「驚き」の才能にも関係しているように思えます。
私たちは、主の業に素直に大らかに「驚く者」でありたい。聖霊は、下りました。私たちが努力して引き寄せたのでも、合理的に到達したのでもありません。まったくもって一方的に私たちに与えられました。だから、恵み、なのです。しかも、それは様々な言葉で伝達されることがゆるされています。バベルの塔の出来事とは全く逆に、各地の言葉で、この恵みの驚きを語るように私たちは招かれています。
聖霊降臨日が私たちに求めるもの、それは、こうした、驚きをもって大らかに事を受けとめる姿勢ではないでしょうか。この日を祝うにあたり、私たちは、こうした「驚き」にもう一度目を向け、もう一度共に驚きたい。そして、その驚きを、感謝と賛美として持ち寄り、ともに聖餐式のなかでおささげしたいと思います。