2011年6月5日   復活節第7主日(昇天後主日)(A年)


司祭 ヨハネ 古賀久幸

残された者へ ―イエス様の祈り―【ヨハネによる福音書17章1−11節】

 愛する家族の死という現実を前に悲嘆にくれるご遺族、特に子どもを亡くされたご両親に寄り添いながら葬儀を進めなければならないときに「イエス様、なぜここにおいでになられてこの子の手をとってよみがえらせてくださらないのですか」と心の中で叫びます。しかし、奇跡は起こらず手順にしたがって事を運んでいかなければなりません。葬儀を司る牧師として抱えなければならない矛盾とはわかっているのですが・・。
 イエス様は独り、天に昇っていかれました。この世に残された私たちの胸には「一緒につれていってください」という願い、「私たちをこの世に置き去りにされるのですか」のような泣き言、「いつ帰ってくださるのですか」という問いなど様々思いが巡ります。先程の葬儀のときに抱く私の思いもその一種です。いくら激しく祈ったからと言って死者のよみがえりの奇跡は起こり得ないにもかかわらず、それでもわたしたちがイエス様につながっているということは単なる思い込みにすぎないのでしょうか。イエス様のみ言葉に繰り返し繰り返し帰って行かなければ弱い心にはすぐに不安の雲がかかってしまいます。幸い、この世に私たちを残していかれたイエス様の思いを聖書によって知ることができます。今週与えられた聖書のみ言葉、十字架の死を前にこの世に残して行く弟子たちのためにイエス様が捧げてくださった祈りに心を向けましょう。「彼らは世に残りますが、わたしはみもとへまいります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように彼らも一つとなるためです。」(ヨハネによる福音書17章11節)。イエス様は天の国ではなくこの不確かな現世で生きて行きなさいとわたしたちを残されましたが決して捨ておかれませんでした。今も天から「守ってください」と祈り続けてくださっています。それは父なる神と子なるキリストとの十全な交わりのように私たちもこの世における生と死を超えて一つとなるためでした。
 先程の私の矛盾も少しは解けてきた気がします。たとえこの世において願った奇跡は起こらなくても、わたしたちは愛によって死によっても断ち切ることのできない交わりの中で一つにされているからです。