司祭 ヨハネ 石塚秀司
十字架の受難とご復活の恵み【マタイによる福音書27章1−54節】
教会の暦は復活前主日を迎えました。来週の日曜日にはいよいよ復活日を迎えます。教会はこの1週間を受難週としてイエス様の十字架の受難に思いを集中していきます。このことと復活日とは切り離すことのできない深いつながりを持っています。つまり、十字架のご受難と死の出来事に深く思いを至らせ、その意味を痛みを持って感じてこそ、主のご復活を心からの感謝と喜びをもってお祝いすることができるからです。
復活前主日は「棕櫚の主日」とも呼ばれています。イエス様はロバに乗ってエルサレムの町に入られました。その姿が見えると、大勢の群衆が自分の服や切ってきた木の枝を道に敷いて「ホサナ。ホサナ」と叫びながら(ホサナとは「救いたまえ」という意味)迎えたと福音書は伝えています。そして、その木の枝は棕櫚の木とされていたことから、4世紀頃から復活前主日は「棕櫚の主日」として守られてきました。この日には、祭壇を棕櫚の葉で飾ったり棕櫚の葉っぱで作った十字架をお渡しするという習慣もあります。
エルサレム入城での群衆の歓喜に満ちた姿を頭に描きながらきょうの福音書を読むと、その群衆の姿のあまりの違いにいつも打ちのめされてしまいます。そして、群衆とはこんなものなのかもしれないと思いつつ、これは実は自分の姿ではないだろうかと思えてくるのです。エルサレム入城の際に歓喜の声を上げて迎えた人たちと十字架への道で主を罵る人たちとは異なる人たちだと考えたとしても、自分の中にいつも両方の姿が見え隠れしているのではないでしょうか。その場その場で自分に都合に良いようにまったく逆の態度を取る私たちの姿があります。十字架の受難物語はこの人間の自己中心の醜い姿を、そしてそのことがどのような事態を引き起こすか、どのような重荷を作り出し死をも招くことになるのかを描き出そうとしているのではないかと思います。このようにして、十字架の受難物語は私たち人間の罪の現実を映し出してくれます。
午後3時頃、十字架上でイエス様は大声で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。絶望の淵に立たされてあとは死を待つだけ。他に逃れる道や可能性など何も見出せない。そういう状況の中で、「なぜわたしをお見捨てになったのか」と叫ばれました。自暴自棄になってそう言われたのでしょうか。神様を憎んだからでしょうか。そうではありません。最後の最後まで「わが神、わが神」と呼びかけておられる。鶏が鳴く前に「私は知らない」とイエス様との関係を否定し身を隠したあのペトロとは違って最後まで神様に祈っておられる。そのようにして父なる神様への信頼と従順を示されているのではないでしょうか。私にはそう思えてなりません。そして私たちは、ここにこそ復活にいたる道、新たに生まれ変わる道を見出すことができると思います。それは「わが神、わが神」と最後の最後まで呼び求める信仰の道です。自分にとって都合の良い時は信じるが都合が悪くなったら信じない、関係を否定してしまう、そのようなご都合主義ではなく、もう信じられないとしか思えない絶望の中にあっても信じ祈っていく信仰です。そして、そこから神様の出来事は起こっていった。新たな生へのよみがえりがある。聖書はこの救いの出来事を伝えようとしています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。ヨハネによる福音書3章16節のみ言葉です。信じる者が、滅びの状態から神様の命に生き生きと生かされる新たな生に生まれ変わるために、わざわざ愛する御子を遣わし十字架のみ業をなさってくださった。そこにどんなに深い、私たちのことを思う神様の愛があることでしょうか。このことに本当に気づく時、私たちはその愛に揺り動かされます。何をもってそれに応えていこうかと。主にのみ十字架を負わせるのではなくて自らも神様のための十字架を背負おうと揺り動かされていきます。ここにキリスト教信仰に基づく奉仕と宣教の原動力があります。