司祭 ヨハネ 井田 泉
主に喜ばれることは何か?
「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」エフェソ5:10
このように言われると、ひょっとしたら私たちは、「主に喜ばれないことをしてはいけない」「正しい良いことしなければ」「自分はそのようなことはできていない」というふうに思いがめぐっていくかもしれません。けれどもその方向は一度ストップして、「喜ばれる」「喜び」という言葉に心を向けてみましょう。
今年の聖書日課はA年で、主日の福音書はマタイによる福音書が主として朗読されます。マタイ福音書の中に「喜び」が書かれていたでしょうか。
まず初めのほうに、遠い東の国から救い主を尋ねて危険な旅をしてきた博士たちのことが記されています。
「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」2:10
まもなく確かに救い主にお会いできることを知った彼らは、喜びにあふれました。主イエスの地上の生涯の始まる前に、救い主を迎える人々の喜びがあります。
今度は福音書の終わりのほう、主イエスの十字架の死と葬りの後、二人のマリアが墓に行ったとき、天使が現れて主の復活を告げます。
「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」28:8
まだ出会っていないけれど、再び主にお会いできることを知った喜びがあります。これを知らせようと二人が他の弟子たちのところへと急ぐ途上……
「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」28:9
「おはよう」と訳された言葉は元々は「喜べ」という意味の言葉です。イエスは彼女たちと一緒に喜ぼうとして待っておられたのでした。
マタイ福音書に沿って主イエスの生涯をたどっていくと、いろんなところに喜びが溢れています。イエスは幼子のような者の中に神の働きを見て喜び(11:25)、失われた1匹の羊を捜し見出して喜び(18:13)、また託された賜物を活用して働く者を知って喜ばれます25:21)。
「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」25:21
この世界と私たちの人生に困難がうずまいているとしても、私たちと共に労苦し、私たちと共に喜ぼうと願っておられるイエスがおられます。
私たちには主と共に喜ぶ日が備えられています。その日を期待して待ち望みつつ、主に喜ばれることが何かを尋ね、見出し、それを実行しましょう。