執事 マタイ 出口 創
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。【ヨハネによる福音書3章16節】
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、ことに東北関東大震災で亡くなった方々と被災されている方々と共に、豊かにありますように。アーメン
『地獄絵図』とでも言うのでしょうか。子供の頃社会科の教科書で見た、終戦時の長崎や広島、沖縄や東京などの焼け野原を思い出させるような光景を、連日見ています。瓦礫の山々。数十体、数百体と、まとまった数で発見されている遺体の数々。追い討ちをかけるかのような、続く余震、原子力発電所の爆発や冬型の気圧配置。また、長野県や新潟県でも続く地震。先ほども静岡県で発生した地震の揺れが、私の住む滋賀県彦根にも到達しました。まるでフォッサ・マグナを境に東側の地殻が連動して活動を始めているようにも思えます。
この文を私は3/15に書いています。救助隊やマスコミ各社が被災地に入って、懸命な救助活動をなさり、また状況を現地から伝えてくれています。しかし、救助隊やマスコミさえも入れていない、発見されていない被災地や避難所があるのだろうということは、想像に難くありません。地震や津波で断末魔の声さえ上げられずに亡くなった方もおられるでしょう。また地震や津波は免れたけれども、援助の手が届かずに亡くなった方もおられることでしょう。日本中、そして世界中の多くの人が今、「自分には何が出来るのだろうか」と歯がゆい思いをして、それぞれに焦燥感と闘っておられるのではないでしょうか。
「多くの困難、惨状、課題があることはテレビ等でよくご覧頂いていることと思います。同時にそうした中にあって、仙台、東北の人々の優しさや礼節のようなものに感激するほどです。地震直後、信号が切れ、警官も出ていない大きな交差点でも、渋滞した車が混乱もせず、いらいらもせず、穏やかに譲り合ってうまく流れている様子には驚きました。高齢者の方等への親切や、お互いへの配慮も目につきます。」
「しかし、今回の災害とそれに伴う諸問題は、東北地方だけでなく、北海道から北関東教区、横浜教区の範囲、また東京都等をも広く含んでいます。わたしたちもまたお見舞いを申し上げなければならないと思います。」
(どちらも、東北教区加藤博道主教の3/15付メッセージから引用。)
このような心温まるメッセージに触れることで、被災者を助ける具体的で即効的な手段を持たない私たち、「今自分には何が出来るのだろうかと」焦燥感と闘っている私たちが、逆に被災地域の方々に慰められている現実もあるのではないでしょうか。
神様のなさる事は、時として私たちにとっては理解や納得をできないことです。でも私たちが信じている神様は、「それでも神様は私たちを愛し続けておられるということ」、また神様が私たちに「私はあなたたちを愛し続けていることを信じて欲しい」と思い、働き続けておられます。「そんなこと、理解できないし、納得もできない」と多くの方が思われるでしょう。どれだけ説明されても、理解も納得もできないのかもしれません。理解もできないし、説明もつかない、科学的証拠もない。だから『信じる』のです。「理解できなくても構わない、納得できなくても構わない、それでもわたしはあなたたちを愛し続けている。独り子イエスをあなたたちに遣わしたのは、その証拠ですよ」と言い続けているのが、私たちが信じている神様の愛です。
被災地に、被災者たちの真っ只中に、十字架で傷つき血まみれになっているキリストが共におられます。人の目には『地獄絵図』、『神も仏もない』としか思えない現状ですが、十字架に付けられて傷だらけになって死に、復活して天に昇ったことによって、「再び上から生まれる(ヨハネ3:3)」道を開いてくださったキリストがそこに今、共におられ、神がその独り子をお与えになったほどに、愛しておられる世で、飢えと苦しみ、寒さや恐怖を共に担っておられるのです。
この主キリストに仕える私たちが今出来ること、キリスト者だからこそ出来ることは、まず何よりもイエス・キリストのみ名によって献げる主なる神様への祈りです。これは『キリスト者の特権』とも言えるかもしれません。祈りは力です。私たちが仕えているキリストが今、共におられる東北関東の被災地域の方々を覚えて、まずは祈り続けましょう。そして祈り続ける事を通して、私たち教会共同体は、互いに祈り、祈られ合う共同体であることをもう一度思い起こしたいと思います。