司祭 ヨシュア 柳原義之
行きつ、戻りつ、おろおろしつつ、自信がなく・・・・
まもなく大斎節が始まります。大斎節前主日の福音書(マタイによる福音書17:1−9)は、山の上でイエスの容姿が変わるところです。ここにモーセとエリヤが現れ、イエスと語り合うシーンです。
弟子のペテロはあまりのすばらしい?光景に、自分でも何を言っているかも分らなくなってしまいます。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人は雲中に響く神の声を聞き、残っていたのはイエスのみであった、というところです。
出エジプトのリーダーとして、十戒を神からいただいた者としてのモーセ、カルメル山で450人ものバアルの預言者たちと対決し、見事に天から火を降らせてイスラエルの神を証明して見せたエリヤ。きっとペテロはじいさんたちから聞いたビッグネームが目の前にいるなんて、と感激の極みだったろうな、と思います。しかし、モーセさんもエリヤさんもその生い立ちや神様から呼ばれた時には、決してかっこいい人であったとは言えません。
モーセはそもそも生きながらえるために川の葦の中に置かれ、エジプトの女王に救われた生い立ちを持ち、奴隷となっているイスラエル人を助けるために事件を起こし逃亡者となりました。その後様々な経緯の中から出エジプトのリーダーとして召しだされるのですが、神様の呼びかけに弁の立たない彼は「ああ主よ。どうぞ、誰か他の人を見つけてお遣わしください」としり込みします。さらに荒れ野の旅の中で不満ばかりを言う人々に腹を立て、神様に不平をぶちまけるそんなとても人間的な人だったように思います。(出エジプト記を読みましょう)
エリヤはアハブという王に干ばつを伝えにいかされ、自分自身も食料を求めて移動する者でした。干ばつが進んで食料がなくなったときには、母子二人で暮らす最後の食料で自分の食べ物を作れ、と命じてしまう酷な?人であったように思います。もちろん神様のご計画の下にあったので食べ物はなくならなかったのですが、さらにその一人息子が死んでしまうという、母親にとって「疫病神」的な存在でした。これも息子の蘇生によって神様の力を現す機会となるのですが、その後のカルメル山での決闘のかっこよさとは裏腹に、命を狙われるとこれもまた逃亡者となり、荒れ野で絶命を願いながら神様にこう言うのです。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」と。その後、再び神の言葉を伝えるものとして活躍し、最後には生きたまま天に上げられる人生を送るのですが、この人もやはり弱さを持ったとても人間らしい感じがします。(列王記上17章からを読みましょう)
二人ともホレブ山で神様と出会うので、山上の変容の場面に出てくるとともに、イエスの時が来たことを伝える福音書の箇所ではあると思うのですが、目覚しい活躍の裏に、実は弱い弱い彼らの心が描かれていることを忘れてはならないと思うのです。
大斎を失うものは一年を失う、と言われ、大斎克己と自分に克つことを求められる時ですが、反対に自分の弱さを知らされた時、イエスの十字架が支えていてくれる恵みを感謝する、そんな弱いわたしを見つける時でもよいのではないでしょうか。