2011年2月20日  顕現後第7主日(A年)


司祭 マーク シュタール

   レビ記19:1−2,9−18
   詩編71
   Iコリント3:10−11、16−23
   マタイ5:38−48

特祷
神よ、あなたは、愛がなければどのような行いも益がなく、愛は平和とすべての徳のきずなであり、愛のない人は主の前では死人に等しい、と教えてくださいました。どうか聖霊を送り、この最もすぐれた賜物をわたしたちの心に注いでください。独りのみ子イエス・キリストによってお聞きください。アーメン

 ここ数週間、メディアはエジプトの話題で賑わっています。私の英字新聞でも様々な記事や特集が組まれ、その量に驚いています。どのコラムニストも、他の企画を取りやめ、カイロでの出来事を書き立てています。多くは、今後の予想や何をするべきかという意見だったりします。
 例えば、オバマ大統領はもっと強い姿勢で臨むべきだとか、国連は支援に乗り出すべきだとか、今後、他の中東諸国にも波及して行くのではというようなことです。イスラエルの安定も心配されています。また、今回、最新の通信技術が果たした役割も注目を集めています。確かにインターネットの役割も大きかったですが、エジプトでデモに参加したほとんどの人にとって、最新のテクノロジーがどんなであるかに関心は薄いと思います。彼らを突き動かしたものは、長年の政治的、社会的、宗教的抑圧に対する不満でした。今後の展開は予想がつきませんが、注意深く見守る必要があります。なぜなら、私達はエジプトと関係が深い遺産を受け継いでいるからです。それは、今日のみ言葉にも表れています。

  旧約聖書の大切なテーマは、神様と神様の創造物、人との関係です。その関係とは何でしょうか。どのように定義出来るでしょうか。もちろん、エジプトでの体験とその後の脱出、祖国への帰還が彼らの気質を決定づけました。エジプトに行く前は、それほどまとまりのないカナンの地をさすらう民でした。エジプトでの奴隷体験を経て、彼らはヘブライ人の部族であるというよりも、イスラエルの民としての結束を強めて行きました。彼らは、依然、神様との関係、自分たちの社会の期待に苦しみました。しかし、旧約聖書の民として基本的な主義や宗教的教護を次第に築いて行きました。エジプトを脱出後、神の民として彼らは、弱い者を憐れむようになります。また、言葉に忠実でもありました。強い正義感を持ち、復讐を思いとどまりました。彼らは、自分たちと同じように隣人に尽くす用意がありました。今日のみ言葉「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である」は、単に勝利を宣言するものでも、エリート宣言でもありません。むしろ、神様との関係、自分たちのあるべき姿勢を示すものです。神様によって、神の民と呼ばれ、神様が自らが神であると宣言されたことにより、神様が賛美され、世に示されたのです。

 パウロの地中海沿岸での布教活動はおそらく、エジプトは含まなかったでしょう。でも、当時、エジプトはナイル川の肥沃な大地を生かし、ローマ帝国の食料の供給源となっていました。地中海を行き来していた輸送船をパウロもしょっちゅう見ていたことでしょう。これらの船は同時に人々の交通手段にもなっていました。きっとパウロも利用したのではないかと思います。エジプトの歴史的豊かさと穀倉地帯としての役割は、パウロを含め、当時の人々に様々な影響を与えたはずです。パウロがコリントの信徒への手紙を書いた時、彼は海外貿易に携わっていた人々に向けて書いていたのです。パウロは「誰も自分を欺いてはなりません。もし、あなたの誰かが自分はこの世で知恵のあるものだと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かなものとなりなさい。」と書いています。ギリシャの神々、ローマ皇帝、エジプトのファラオは皆、知恵を授ける者として崇められていました。しかし、神様に比べたら、足元にも及ばない者でした。さらに、コリントの信徒たちの「何でも知っている」という傲慢な態度は、パウロの謙遜で自己犠牲的な精神と真反対でした。パウロはキリストにならって生きました。その大元は、ずっと昔に遡ります。コリントの信徒にとってのパウロは、ファラオにとってのモーセと対比出来ると思います。モーセは自分の民をエジプトの奴隷の身分から解放したいと願い、パウロは自立しようとする民衆の悪い行いを正そうと願いました。当初、コリントの信徒達はそのことに気づかず、パウロの手紙を受け取ります。キリストに従うことは、イエスとの関係を結ぶ目的ではなく、これからスタート地点に立つということを意味しました。それはイエスのように生きようとすること。苦しみを受け入れ、神様に自分を捧げることです。

 今日のマタイによる福音書(5:38−48)でも、とても的確に人々の行いをいさめています。イエスは、この時点ではまだ、エリートと呼ばれる人々の罠にそれほどうんざりしていませんでした。同時に弟子達の口論にそれほど妨げられていませんでした。まだ、イエスの声は自信に満ちていました。なので、マタイによる福音書の最初の方は、私達の心にまっすぐ響きます。私達は、エジプトの引き裂かれた市民が皆、反対側の頬を差し出し、上着を差し出し、共に敵のために祈り、一緒に2ミリオン歩くようになることを祈ります。
 私達が心配するように、イエスも当時大きな心配を抱えていました。一部の優遇された人々が他の大勢の人々の犠牲の上に自分達の希望や望みを叶えていた訳ですから。まさに自己中心的な姿勢です。ロシアの哲学者のニコライ・ベルジャーエフは、「自分に厳しく他者に寛容であること、これこそがキリスト者のあるべき姿である」と言いました。世の中、如何に反対の立場の人々が幅を利かせていることでしょう。もっと、多くの人がキリスト者の本来の姿勢、精神に立ち返ることが出来たならと思います。エジプトの兄弟姉妹の上に、平安、正義、義が訪れますように祈りましょう。
 主に感謝