2011年2月13日  顕現後第6主日(A年)


司祭 クレメント 大岡 創

「イエスさまのまなざし」【シラ15:11−20、マタイ5:21−24・27−30・33−37】

 本日のシラ書には『「わたしが罪を犯したのは主のせいだ」と言うな。(15:11)』といきなり厳しい言葉が記されていますが、これは人間が自由な意思を与えられた者として自分の行いに責任をもつようにとの戒めです。人間の自由とは「何でもできる」自由ではなく、「選び取る」自由が与えられているのです。何に従って生きるかを決める自由という言い方もできます。しかし神さまに従って生きようとする限り、罪を犯すことも死への道を進むこともなく「その意思さえあれば」律法を忠実に守ることができ、それが命に至る道だという神の知恵をシラ書は語りかけています。
 さて、律法に込められた神の思いを聞き取り、その声に応じた行いをするようにとイエスさまは求められました。また、掟の中に人の命に無関心ではいられない神の思いを懸命に読み取ろうとされました。
イエスさまと律法学者との対立は「人間に対する眼差し」が問題となりました。人を断罪するまなざしは冷たいものです。しかしイエスさまは一人ひとりの人をいとおしみ、その痛みや苦しみに寄り添い、ありのままを包み込もうとされました。当時の人々は律法を守っていても本来の精神が忘れ去られる傾向にいつも晒されていました。法に触れない行いであっても、神の意志に背くことをしようと、心で思ったならば既に罪だというのです。そのような傾向は、私たちにもあるのではないでしょうか。相手に対して、心のどこかで憎み、敵意を抱いたり、嫉妬したり、仕返ししたいと思っているとすれば、必ず、言葉や態度に表れ、何かのかたちで相手を傷つけてしまうことになるというのです。そのためにこそ私たち自身の心の在りようと改めなければならないことをイエスさまは教えられたのです。
 兄弟との和解は神との関係の修復と表裏一体のもの、そこに神さまの思いがあります。思いを心に潜ませることで相手を犯すことも、神が何よりも他者のいのちを大切にすることを望まれているからに他なりません。神を引き合いに誓うことは神を利用すること、自分の思い通りになると考えることだと強く戒められます。
 「神の真実に生きる者のみ、信仰に生きるのであり、人にも真実であり続けることができる」(蓮見和男)と言われているように、打算的な動機ではなく私たちの内なる思いが神さまの愛に支えられながら、あらゆる業にかりたてられていくことなのでしょう。
 イエスさまが言われるように、右の目をえぐり、右の手を切り取るようなつもりで、自分の内にある深く暗い動きに向かって挑みながら、「心を込めて人に向き合っていく」ために自分自身を投げかけていこうとすることなのでしょう。難しいことは当然です。しかしその投げかけをしけなればいつまでも平和が訪れることはなく、誰も代わってはくれない自分とのたたかいの積み重ねによってのみ生み出されていくものなのでしょう。そのすべての行いはすべて主によって知られていることを覚えたいと思います。