2011年1月9日  顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(A年)


司祭 アンナ 三木メイ

「新たな旅立ちの時」【マタイ3:13〜17】

 今日はイエス様が洗礼を受けて、救い主・メシアとして初めて公に姿を現されたことを記念する、「主イエス洗礼の日」です。そしてこの日に「成人のための祈り」をする教会もあります。これは教会暦とは直接関係ありませんが、ある「時」がきてそれを境に新たな旅立ちをするという点では、この二つには共通する要素があると言えるかもしれません。
 「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」と聖書に記されており、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたのもほぼ同じ頃だろうと思われます。この洗礼の「時」を一人の人としての新たな旅立ちの時として考えると、その前にかなりの不安と苦悩と葛藤があったのではないかと思われます。イエスが弟子たちと活動を始めた後に母と兄弟たちが訪ねてきた時、彼はこう語りました。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」この言葉はイエスに従ってきた人々との絆の強さを物語っていますが、一方で血縁の家族に対しては距離を感じさせる言葉です。福音宣教というイエスの活動は、少なくとも最初のうちは身内の家族には理解しがたい、家族の期待にそぐわない歩みだったと思われます。そのことにイエスが深く悩まなかったはずはないでしょう。
 また、当時のイスラエルの民衆のなかには、ダビデ王のように軍事的指導力のあるメシアの到来を待望するという期待が広がっていました。イエスはその期待うずまく中に、登場してきました。しかしこの民衆の期待に反して、当時の人々がおそらく誰も期待していなかった苦難のメシアとしての道を、イエスは歩まれたのです。主イエスの新たな旅立ちとしての活動が真実に何を意味していたかということは、家族にも多くの民衆にも理解されていなかったし、むしろ当初は彼らの期待を裏切る歩みでもあったと言えるのです。
 しかし、その新たな始まりの時には天から神の声がありました。
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。神様はこの新たな旅立ちを祝福し、神の子・救い主としてのイエスに聖霊を降されたのです。
 私たちは現実の日常生活においては、家族の期待や必要に応えて、また周囲の人々や社会のなかで期待される役割に応えて歩んでいます。それはそれで大切なことなのですが、もう一つ忘れてはならないことは、神様の期待に応えること、神様の御心に適う者として、どのように歩んだらいいだろうか、と思いめぐらすことです。「新たな旅立ち」は、自分自身の不安と苦悩に直面することから始まります。私たちも主イエス・キリストの導きを祈り求めながら、新たなる出発、新たなる旅立ちをしていきましょう。