司祭 ヨブ 楠本良招
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」【ヨハネによる福音書1章1−18節】
先日、退職した先生が結婚し、赤ちゃんが生まれると幼稚園にやってきて、先生方が赤ちゃんを交代しながら抱っこしていました。生後間もない柔らかい命の温もりが豊かにさせられました。神の独り子であるイエスさまは、このような赤ちゃんとなってこの世におい出になりました。
数年前にレオナルド・ダビンチの〔受胎告知〕の作品の展示が東京上野博物館で見たことがあります。実物は思ったより大きな絵画でした。天使ガブリエルはマリアを見つめ、マリアの驚く様子が見事に描かれています。マリアの戸惑や不安の表情の見事さが見られました。
マタイ、ルカによる福音書に記されているマリアは、15、6才の女の子、ある日突然天使から「聖霊による受胎」の神のご計画を受け入れ服従します。
マリアは恵まれた女なのに、なぜ、不安を感じ、胸騒ぎをしたのでしょうか。神の前に歩んできたのに、それにふさわしい現実が来ない。「どうして、なぜ」と私たちは何回も同じ質問を繰り返し、人生の不安や戸惑いに迷うことがあります。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」「あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。」とマリアに男の子への命名までしています。マリアの不安な心に、天使ガブリエルは次々と告知していきます。
「恐れることはない。」この語りかけは、人生の悩みや苦しみ全てを神が引き受けてくださる。心配はいらない。神は私のような者にさえ心にかけてくださった。神が私たちの世界に介入してこられた安心に満ちた語りかけです。
「神にできないことは何一つない。」マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えると、やっと天使は去って行きました。
ヨセフも苦悩しますが、信仰によって全てを神に委ねていきます。神に出来ないことは何一ないと言われる神に私たちは全幅の信頼をおきたいものです。
「言は肉となって」とありますが、神の独り子イエスさまは、私たちと同じ肉体をもって、この世におい出になりました。ありきたりの生身の人間としてお生まれになりました。人間ですから、喜びもあり、悲しみ、弱さ、苦しみに生きる私たちの重荷を担ってくださる意味が込められています。
「わたしたちの間に宿られた。」ことは、身ごもったマリアはベツレヘムの家畜小屋の飼い葉桶の中に、神の独り子イエスさまは赤ちゃんとしてお生まれになりました。
どこの家でも子どもの誕生をいち早く知らせるのは家族や普段から親しくしている人たちでしょう。
ところが、「神のみ子の誕生」を真っ先に知らされたのは、野宿生活をしていた羊飼いたちで、神に特別に知らされました。東の方の占星術の学者たちもいましたが、まるでドラマを見ているようです。
彼らはイエスさまの「恵みと真理と栄光」に触れた人々でした。
神の愛が私たちの生活の中に満ちあふれるように祈りましょう。