2010年11月28日  降臨節第1主日 (A年)


司祭 バルナバ 小林 聡

アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。【イザヤ書2:1−5】

クリスマスを迎える準備
〜救い主をどこに見出すのかを問えるようになるために〜

 教会の暦で今年の11月28日は、新しい年の始まりとなります。それはクリスマスの4週間前から新しい教会の暦が始まるからです。
 聖公会ではこのクリスマスを迎える準備の期間、礼拝堂の祭色が紫になります。慎みの紫といわれますが、この4週間というのは実によく出来た期間だと思います。それは待つ者に与えられる大きな喜びの備えとなるからです。心と体がクリスマスを喜べる状態になる、それがクリスマスを迎える期間としての4週間なのです。よく21日間(3週間)で習慣が定着すると言われますが、逆に言えば、救い主を迎えるためにはそのための備えが必要になるわけです。つまり、救い主をお迎えする私たちが、お迎えするのに相応しいあり方となっているのかが問題とされるのです。

 そこで、どのように救い主イエス様の誕生を待つ備えをすればいいのか、今日の旧約聖書、イザヤ書に耳を傾けてみたいと思います。
 イザヤという預言者は、ユダ王国という小さな国の存亡に関わる状況の中で、近隣の大国に翻弄されながらも内部の腐敗と外圧の不当性を主張し、神の幻を語ります。その幻は現在国連本部前の石碑に刻まれている言葉でもあります。
 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ちなおして鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」

 私は、先日韓国に行ってきた経験からこの聖句を思い巡らしてみたいと思います。今から100年以上前、日本は朝鮮半島を侵略し、江華島という場所に武力で押し入り、1910年に不平等な江華島条約を無理やりに結ばせました。それから35年間日本は朝鮮半島を植民地化しました。私は先日その江華島にある江華邑(カンファウプ)教会での創立110周年記念礼拝と、日本と韓国の和解と平和の礼拝に参加してきました。
 日本が行ってきた蛮行は植民地化の中で人間性を奪い、命を奪い、生活を奪うものでした。また戦後の補償は役務供与という形でなされたため、殆ど金銭では賠償していない結果となってきました。その為韓国の民衆から未だに戦後補償の不十分さを指摘されることとなってきました。戦後はまだ終わっていない、そのような印象を私は持っています。今回の和解と平和の礼拝では、戦時中に強制供出させられた鐘と階段手すりの鉄の部分でまだ修復されていなかった手すりの部分を日本の教会の祈りと献金によって奉献する記念式が行われました。
 急な階段を上るために手すりはなくてはならなかったものでしょう。それが、軍需産業のために、兵器の材料として使われてしまったのでした。私達はいつの時代も、兵器を打ち直して、人を支え、人を守り、人びとをつなぎ合わせるための道具を作らなければならないのではないでしょうか。
 しかし、そのことを考える時、イザヤ書が、どのように武器を平和の道具に変えるのかを語っているのではなく、どのような状況の中でそれが語られたのかを考えることが大切だと思うのです。いつの時代も戦争の足跡が聞こえる時、人々は鎌を槍に打ち直します。しかし神は、逆のことを言っているのです。誰しもが槍を持とうとする時、あなたはそれを鎌に打ち直しますか?と。
 しかし、聖書にはイザヤの預言のようなことも発することが出来ない時代があったことを伝えています。そのような時代、黙示という仕方で語られました。その黙示文書の中に「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ」(ヨエル書4:10)という箇所があります。これは武力をも持つ事が出来なかった被抑圧者のユダヤ人の幻でした。実際には武器を持つ事も出来ず、地に踏みつけられていた人々にとって、槍を鎌に打ち直すことも、その逆も、現実には難しいことだったのです。
 今、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が武力を持って対峙しています。その時民衆は、槍を鎌に変えるのか、鎌を槍に変えるのか、そのような選択からも除外されているのが現実ではないでしょうか。
 私達は、この現実世界の中にあって、救い主をどのような状況の中で見出すのか。そのことを問うことがクリスマスを迎える備えとなるのではないでしょうか。その為には私達は神に会うために出かけなければいけないのかもしれません。しかし救い主はどこにおられるのかという問いはクリスマスの準備期間を経て、初めて私たち自身の心からの問いとなるのではないでしょうか。私達はまだ、主をお迎えする状態にもなっていないというところから、クリスマスを迎える季節を始めたいと思うのです。救い主はどこにおられるのか、と慎みの紫の期間問い続けてみましょう。