司祭 ヨハネ 石塚秀司
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」【ルカ19:1−10】
ある本にこのようなことが書かれていた。聖書には何も触れられていないが、ザアカイはこの後どんな人生を歩んだのだろうか。福音書に名前が載るほどだから初代教会においてよっぽど知られていた人物であるに違いない。後に洗礼を受けてキリスト者となり、教会の働き人となったのだろうか。司祭にはなっていなかったとしても、信徒として教会で指導者的立場にあった人だったかもしれない。そして彼は、自分の体験を生き生きと繰り返し人々に語っていった。ザアカイが天に召された後もいろいろな人たちによってそれは語り継がれ、聞いた人々の心を揺り動かし、第二、第三のザアカイが生まれていった。そのようにして、ザアカイの身に起こった出来事は、多くの人たちに愛され語り継がれる物語となっていった。
それまでのザアカイの生き方について福音書はこう書いている。彼は徴税人の頭で金持ちであった。今で言えば、地方の税務署長ということになるだろうか。当時はお役人ではなく個人的に徴税業務だけを請け負い、税金として一定の定められた金額を当時支配していたローマ帝国に納めるのが仕事であった。その納付金に上積みしたものが彼らの報酬となったが、法外な金額を上積みし、貧しい人たちからも強引な取立てをして私腹を肥やす者も少なくなかった。だから、徴税人は人々から罪人と軽蔑され嫌われていた。さらに、ローマの利益のために働いているということで売国奴と非難されることもあった。その頭という地位にあったザアカイも、金には何一つ不自由はなかったかもしれないが、何か満たされない日々を送っていたのではないだろうか。
ところが、そのザアカイの人生にとって決定的な出来事が起こる。その出来事は彼の生き方を変えた。要求し奪うことしか考えない者から財産を分け与える者へと変わった。私腹を満たすためには人をだますことも平気であった者がその過ちを素直に認める者へと変わった。ザアカイは新たな生き方によみがえったのである。このことによって、それまでの人生で失われていた何か大切なものが回復されていったとも考えられる。この劇的な変化をもたらした出来事は主イエスとの出会いであった。そしてそれは、ザアカイが主イエスを喜んで迎え入れたことから始まっている。ザアカイの家で何を話し何があったのかについては福音書は何も語らない。このことは、かえって主イエスとの出会いそのものを強調しているようにも思う。
ある人は言う。「我々は多数の人に出会っている。しかし、これまで我々が真に見た人は何人あるだろうか。真に見ることは愛の目をもって見ることである。」私たちは、表面的に触れ合い、すれ違い、思い込み、お互いに偏見を抱きながら、寂しい悲しい思いをし、満たされないでいることがいかに多いことだろうか。しかし、ザアカイが体験した出会いはそうではなかった。ザアカイは愛の目をもって真実を見つめる眼差しと出会った。それによってザアカイの心は癒され、解放され、神様のことを思い、人のことを思う新たな人生へと変えられていったのだと思う。イエスというお方は、喜んで迎え入れる人の人生にこのような救いの出来事を起こすお方であることをこの物語は伝えようとしている。
今も、主は、是非あなたの家に、あなたのところに泊まりたいとあなたに声を掛けていると思う。喜んで迎え入れる、そこから神様が与えてくださる新たな人生が始まる。