執事 アントニオ 出口 崇
9人のひとたち
10人のユダヤ人とサマリヤ人。重い皮膚病を患っているため、それぞれの共同体から排除され、町に入ることも出来ず、イエス様に近づくこともできません。
癒されたい一心で、声を張り上げてイエス様に助けを求めます「わたしたちを憐れんでください」
イエス様は10人の身体に触れることもなく、癒しの言葉をかけることもなく、ただ祭司のもとに「行け」といわれます。
それぞれの共同体に復帰するためには祭司に体を見せ、病気の治癒を宣言してもらわなければなりませんでした。
重い皮膚病は何の変化もなく自分と共にありますが、イエス様が「行け」といわれるので、10人はユダヤとサマリヤのそれぞれの共同体の祭司のところに向かいます。
どれだけ長い道のりかは分かりませんが、向かっている途中に病が癒されます。
自分自身に神様が働いてくださったことを知った1人のサマリヤ人はイエス様のもとに戻り、ひれ伏して感謝します。
ほかの9人はどうしたのでしょうか。
「苦しい時の神頼み」といいますが、楽になったら神様の方を向かなくなる、神様への感謝を忘れてしまっているのでしょうか。
それとも、イエス様は「行け」と言われただけですので、旅の途中で自分が癒されたこととは直接的な関わりがあったとは思わなかった。イエス様との出会が自分自身に大きな変化をもたらしたとは思わなかったのかもしれません。
またはイエス様に言われたとおり、祭司のところへ行き、病気の治癒を宣言してもらい、共同体に復帰した。家族と共に食卓に着いた。
そしてそれから感謝するためにイエス様のもとへ向かっているので、最初のサマリヤ人よりも遅くなったのかもしれません。
ほかの9人とは、私たちのことではないでしょうか。
神様が私たちのうちに働いておられる。しかしそのことに気付くのは、ずっと後になってから。
「ほかの9人はどこにいるのか」
どんなに遅くなっても、私たちがイエス様のもとへ戻ることを待ってくださっている。
大声で賛美しながら戻っていきたいです。