司祭 マーク シュタール
申命記では、主は二つの選択を示されました。神様に従い生きるか、それ以外の神々に仕えて生きるか。前者は生への道、後者は死への道。神様は、人々に「それなら、生きる道を選びなさい」と諭します。簡単なようで、しかし、我々も知っているように、簡単であることはしばしば多くの困難を伴います。フィレモンへの手紙の中は、とても感動的で個人的な手紙です。神学的な中身はほとんどないと言ってもいいくらいです。パウロは牢獄から、フィレモンに対して、キリスト者の同胞オネシモをよろしくと頼みます。それは、命令というよりはお願いです。手紙の内容から、フィレモンは既にオネシモを知ってはいるけれど快くなく思っていることが伺えます。オネシモを許し、同情しなさいとあるからです。これを踏まえ、パウロはフィレモンに「私はあなたから主にあって与えてほしい。私の心を主にあって清めてほしい。」と言います。このパウロの願いが聞き届けられ、オネシモも新たなキリスト者の兵士となったことでしょう。ルカによる福音書では、パウロは群衆に向かって言います。「誰でも十字架を背負って私に従わないものは、弟子となることは出来ない。」厳しい言葉でしたが、群衆にとっては長い目で必要な忠言でした。イエスはこの世の人生が、申命記にある通り、苦難の連続であることを知っていました。「生きる道」を選択して十字架を背負うことは、最初は苦になるでしょう。しかし、私達が知るように、その十字架の苦難を受け入れる者は、後にその十字架が重荷でないことを知ります。その逆です。私達が背負った重荷は、いずれキリストが背負ってくれるのです。キリストは、私達にこの世の富を求めず、同じように重荷を背負って、神様のメッセージをこの世の弱き者のために広めなさいと言っているのです。私達は、今日の詩編のように、キリストの目であり、耳であり、腕となるのです。
流れのほとりに植えられた木のように
時が来れば実を結び
葉もしおれることがなく
この人は何をしてもすべては実る