司祭 クレメント 大岡 創
「席順選びの譬え」【ルカ14:7〜14】
本日の福音書は「宴会での席順選びのたとえ」として宴席に招かれた者と招いた者に向かって語られています。「イエスは招待された客が上席を選ぶ様子に気づいて彼らにたとえを話された」と7節にイエスさまが何故たとえを話されたかの理由が記されています。
最近の披露宴では席が予め決まっているから、こんなことは起こらない?大抵の人なら遠慮が働くでしょう、と言われるかも知れません。しかし、「本当は上席に座るのは自分だと思っている。でも、それをすると面倒なことになるから・・・」「いつも自分がどのように評価されているのか。どんな風にもてなされているか、気になる」「少しでも自分が上の方に扱われると気分がいい」そんな誰しもが持っている心情にイエスさまは敏感に反応されました。
幼い頃というのは、親の自分に対する態度を感じ取ったり、計ったりしていた、と言われることがあります。おやつの分け方ひとつとっても自分がどう扱われるか気がかりなものです。少しでも不公平に扱われると、すぐに傷つく。そんな一面があります。しかし大人になっても「いつも誰かと比べている」ことを通して「社会の上座」「上席争い」をしている「自分」はないでしょうか。
婚宴・宴席が舞台になっているこの箇所は「神の国」が「婚宴」にたとえられています。
何よりも喜びの食事であるこの席を備えて下さったのは神さまです。神の国において私たちを治め、活かし、守って下さる時に私たちをもてなしてくださいます。その神さまのもてなしを受ける喜びに招かれているのです。イエスさまはそのためにお出でになられました。その招きに応えていくことが「信仰」であり「神さまの恵みに生きる」ことです。その招きにどのように応えようとするのか、その姿勢が問われているのです。その意味において上席とか末席とは自分と「神さまとの関わりにおける」座席なのかも知れません。
「誰でも高ぶる者は低くされ へりくだる者は高められる」(11節)この言葉の中に「上席」を争う者たちの心に「高ぶる者」の思いが重ねあわされ、イエスさまに読み取られています。
「自分は神の恵みを受けるにふさわしい信仰を持ち、それなりの行いをしている人」なのか、「そうは考えていない人」なのでしょうか。「自分はもてなされるにふさわしい信心を持って生活をしていると思っている人」なのか、「自分はそのように神さまにもてなして頂くに相応しくない者」だと思っているのでしょうか。
神さまの恵みを自分が受けるのは当たり前だと思っている時にではなく、自分が少しもそれに相応しくないのに、こんなにも豊かにもてなして頂いているということが少しずつ分かってきた。そのような時にこそ、神さまの恵みに相応しい者になっていけるのではないでしょうか。