司祭 ヨブ 楠本良招
初島だより10号「健康に思う」
梅雨の晴れ間の暑さに汗を拭い、藤棚の緑に涼を感じるこの頃である。
最近、いかに健康ですごすかが気になりだした。あと3年で定年を迎えるが、それ以降どう過ごそうか今からとりこし苦労である。今は幼稚園園児からエネルギーをいっぱいにもらっていることが一番の健康法と思っている。
聖霊後第7主日はルカによる福音書10章25節〜37節から「善いサマリア人」の譬えが用いられている。登場人物は強盗に襲われた旅人、祭司、レビ人、サマリア人の4人。イエスさまと律法の専門家との対話から始まっているが、彼は「主なる神を愛すること、隣人を自分のように愛する」とてきぱきと答えながら、自分を正当化するために「隣人とは誰か」と質問している。そこでイエスさまはこの譬えを答えられた。
旅人が、強盗に襲われ半殺しにされ、瀕死の重傷を負って倒れていた。神殿に仕える祭司とレビ人は横目で見ながら関わりたくなかったので向こうを通りすぎた。彼らは人を助けなかった。横目で通る過ぎることは彼の苦しみを知りながらの罪は重い。彼らは、現在に例えれば葬儀を司り、瀕死の病人であれば祈りもできたはずである。彼らは旅人の背中をさすることすらしなかった。しかし、「サマリア人」は旅人を介抱し、宿屋まで連れて行き、宿賃まで支払う親切をした。彼は旅人の背中をさすり、やさしい気持ちにさせた。旅人は一言も礼を言うこともできなかったが、サマリア人は報酬を求めないその行為に彼の価値がある。つらくて悲しい時ほど人の背中をやさしく擦ると悲しみが癒される。イエスさまは「この旅人の隣人になったのは誰か」と尋ねると、彼にとっては軽蔑している「サマリア人」とは答えずに「その人を助けた人」と答えている。イエスさまは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた。
以前、放浪していた青年が教会を尋ね牧師館に宿泊したことがあった。園庭の落ち葉の掃除を手伝いもしたが、ある日、県外へ住み込み企業への面接のため、片道の旅費を渡し職安へ出かけた。うまく就職出来たのだろうとかとのかすかな思いと、病になればどうするのだろう、友達もいるのだろうか、身内と連絡を取っているのだろうかと心配した。青年であるから放浪ではなく仕事をしたい気持ちを大切にしたと思い返している。
浜風の強い初島の地から、風にも負けないように彼の健康を遠くにありながら思いを馳せている。