司祭 ヨハネ 黒田 裕
「吉祥」をたずさえて
ある日わたしの妻が、「お父さん、いいこと発見したよ」と、ひとつの図版を見せてくれました。それは和服の柄のひとつで、「松喰い鶴文」(まつくいづるもん)という(※松葉を鶴がくわえて羽ばたいている)図柄です。彼女は和装と着物コンサルタントの資格を持っているほど着物の柄に関心が強く、この日も和服の柄の図鑑を見ていたのでした(平凡社『きもの文様図鑑』)。そして、その模様自体は前から知っていたけれど、改めて図鑑の説明文を読んで驚いたと言います。というのは、この文様の歴史は古く、なんと古代オリエントにまでさかのぼるそうです。そこでは鳩がオリーブをくわえるシンボルがあって、これは生命復活のしるしであった。そしてこれが中国に伝わり、奈良の正倉院のお宝にも伝わって、「花喰い鳥文」という花咲く小枝をくわえる鳳凰や尾長といった鳥の文様になる。このときには鶴はわずかだったが、平安時代後期になると、ここにあるような若松をくわえて飛ぶ姿が定着し、この文様は藤原文化の代表的な文様として用いられ、現代にまで途切れることなく好まれている―。さらには、この文様は、分類でいえば「吉祥文様」という範疇に入るそうですが、さらに驚かされたのは、この言葉には次のような意味があるということです。そもそも「吉祥」とは、「よいしるし」「めでたいしるし」という意味を持っていて、「吉祥文様」とは、それを求め、喜び、そのことを知らしめる文様であり、それを概念化し視覚化したものがこの文様である、というのです。そこで婚礼などによく用いられるそうです。こうした説明に続いて最後に妻はわたしに「もともとはオリーブをくわえる鳩で、復活のしるしだったわけだし、『吉祥』という言葉も、これって『福音』ていう意味やんなあ」と教えてくれたのでした。
松喰い鶴文―それはキリスト教に直結しているものではないようですが、しかし、それに近いところで、3000年以上の時を越えて、この地に伝わり、「吉祥」のシンボルとして今も人々に親しまれている―そのことにしばし静かな感銘をおぼえたことでした。
さて、今日の福音書【ルカによる福音書10:1−12,16−20】ですが、イエスさまが弟子たちを派遣する場面で、福音とその伝達に関する箇所です。では、ここに見られる「福音」というのは何でしょうか。よく見ると今日の箇所には「福音」という直接の言葉はありません。そこで、「福音」にあたる言葉を探してみますと…「平和」「神の国が近づいた」、となっています。そして、福音というのは、なにか真空状態のなかで語られるものではなくて、必ず、ある特定の状況のなかで響くものです。では、ある特定の状況とは何か、というと、それが伺われるのが「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」というところです。
「狼の群れ」、それは、「弱肉強食」と置き換えられると思います。「弱肉強食」、それは、現代という時代にも共通する要素が多分にあることに気づかされます。大国の支配はますます一極に集中して大変危険な様相を呈していますし、国内を見ますと、格差がますます広がるような方向へとどんどん向かっているように見えます。そのような中で、人間の尊厳性が軽んじられ破壊されていく危機を感じざるをえません。
こうした状況のなかで、弟子たちが派遣されたように、私たちも派遣され福音を宣べ伝えるように招かれています。
では、その福音とは何でしょうか。それは先ほど触れましたように「平和」であり「神の国が近づいた」というメッセージです。わたしは、そのイメージを、「ノアの箱舟」に出てくる、“オリーブをくわえた鳩”に重ねてみたいのです。荒れ果てたかにみえる大地に、しかし、芽吹いた葉がある。それをくわえて飛ぶ鳩、です。それは「平和」のしるしであるとともに「希望」のしるしでもありました。とってつけたように思われるかもしれませんが、実は、福音書の冒頭の「七十二人」とは、一説には、創世記10章の「七十の民の記録」つまりノアの子孫の系図からとられたモチーフが背景にあるとの指摘があって、そこから考えればあながち的外れでもないように思われます。それは、洪水ののちにおとずれた「平和」が、さまざまな部族や民族へと広げられることをあらわしていて、いわば神の言がさまざまな民の言葉で語られることを暗に示したペンテコステの一つの原イメージなのでした。わたしたちが伝達するもの、しかも私たち自身のことばで伝達するもの、それはオリーブの葉であり、鶴がくわえた若松、つまり「平和」といえるのではないでしょうか。
とはいえ、もちろんオリーブをくわえた鳩と、松をくわえた鶴は、まったく同じというわけでもありません。突然舞い降りる、という鶴のイメージのように、日本におけるそれは、「棚からぼた餅」のように、突然降ってくる、直接的に何の媒介もなく降って湧いてくる、あるいはそれを願う気持ちでしょう。しかし、キリスト教では、必ずそれを媒介する者、伝達者が必要とされます。それが「弟子」であり、究極的に神さまの言を仲介したのはイエスさまでした。キリスト教の場合には、神の言の伝達において、媒介するもの、しかも、人格的に媒体となるものが決定的に重要なのです。
では、媒体そのものに注目するとどうでしょうか。鳩や鶴が、枝を口にくわえている、この「くわえている」というところが、イイのです。これが猛禽類であれば、野ねずみやウサギを丸ごと手で(いや足か?)わしづかみにするイメージです。しかし、葉っぱや木の枝だけをくわえてくる、というところが私には暗示的に思われます。というのは、木全体を育てるのは私たちではなく、神さまだからです。私たちは、神さまが養い育てる「平和」や「希望」のごく一部を口にくわえて伝達するに過ぎません。私には、そのこと自体にも慰めを感じるのです。
また、そのしるしを、他ならぬ口にくわえている、というところにも注目せざるをえません。神の言、「平和」を、口にくわえ、たずさえる、それが伝道者の姿だとあらためて気づかされます。詩編第1編の2節には、「幸いなこと」として、「主の教え(※つまり神の言)を愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」というくだりがあります。この「口ずさむ」には、他の訳として(主の教えを)「さえずる」というのがあります。そしてこの「口ずさむ」「さえずる」は、実はメディテーション・黙想の語源となっています。ですから、黙想とは、主の言葉を、それゆえに、平和を、何度も何度も「口ずさみ」「さえずる」こと、くりかえしオリーブや松の枝をくわえることなのです。
私たちは、「狼の群れ」に対しては、「小羊」のような存在にすぎないかもしれません。にも関わらず、神の国が到来することを、そして、平和を「さえずる」ものとして立てられ派遣されました。鳩がオリーブをくわえるように、鶴が若松をくわえるように、私たちは福音の良き知らせを、「吉祥」を、そして「平和」を、その口にくわえて、たずさえて、羽ばたくように召されたことを、分かち合いたいと思います。
そのことをおぼえて、今日の「平和の挨拶」を、主の平和を、みんなで「さえずり」ながら、交わしたいと思うのです。