2010年6月27日  聖霊降臨後第5主日 (C年)


司祭 ヨハネ 古賀久幸

恵みの海へ飛び込む

 人生の諸段階において、一つの区切りをつけて気持ち新たに次に行こうと思うのですが、現実にはそんなことは稀です。さらに一つの決断をしてもなおも前のことが気になって仕方がないのが私たちの優柔不断な心のありさまです。

 熱心に礼拝に出席される求道者がおられました。半年くらいして洗礼の話を切り出しましたら、「自分の罪や愚かさを克服してから洗礼を受けます」と言われました。時が来るまで祈りつつ待ちましょうと答え、それからさらに半年。クリスマスに洗礼を受けたその人ははたして自分の罪をぬぐい、悟りを開き得たのでしょうか。その方のお話によると、どうもそうではなく、罪のままで、悟りも開かぬまま、ありのままでイエス様に従ったということでした。それは、自分で自分の罪をぬぐうことはできず、どれだけ道を求めても悟りはえられぬものだと知り、どうせそうなら、そのままで飛び込んでしまえとの思いだったそうです。イエス様をとおしてあらわれた恵みの大海に身を投げられました。
 椎名麟三はクリスチャン作家でしたが、洗礼を決断したのはドストエフスキーへの深い傾倒だったそうです。ところが、それは「信じられないままに、自分の全存在をキリストに賭けたと言っていいでしょう」ということでした。しかも、洗礼を受けたからといってすぐにキリストが信じられたわけではないとも述懐しています。人は努力を重ねて立派になったから、次のステップを昇れるのではないようです。
 イエス様は「鋤に手をかけて後ろを顧みる者は神の国にふさわしくない」、と言われました。キリストの恵みを握ったならば、自分の罪のことに気を取られるな。目の前の土にザックと鋤を振りおろせ。と私たちの過去への思いを断ち切られます。