司祭 パウロ 北山和民
主はこの母をみて憐れに思い、…棺に手を触れ…。人々はみな恐れを抱き、神を賛美して「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤ全土と周りの地方一帯に広まった。ルカ7章11−17
ルカによる「復活の主、イエスの復活の予表」、いわゆる「先取り」のルカ独自の記事。これが7章のここにおかれた意図は明らか。すなわちイエスから流れ出る福音が、ユダヤから全土へ、異邦人から民衆へ(ヨハネの証言の事実)と満ちていく様を物語るためである。
この奇跡物語には、「特徴と言えない二つの特徴」がある。つまり当時その人々にとって自明のかたちが用いられているのである。
一つは、ユダヤ人にとって「いわずと知れた大預言者エリヤ」にイエスがなぞらえられ、「やもめの一人息子」を生き返らせている。「イエス」が(本日の旧約のエリヤ同様)「主」と記される。
二つ目は、これも当時ユダヤ教の「死者復活説話」のいわゆる定型で記されている。つまり、a.悲しみの現場がある(マジックショーではない) b.執行者の呪文的な言葉、命令(合理性を越える恐るべき力) c.奇跡の確認「死人は起き上がりしゃべる(他では、食べる、くしゃみする。社会の中に戻る)」の形式に則った記述がなされる。
この二つの特徴が今、わたし達に意味しているのは何か?
わたし達は、イエス様もルカも「旧約聖書」の人である事を忘れてはいけない。「旧約聖書という神の言葉によって捉える現実」、そして「イエスの十字架以後のこの共同体」とのせめぎあいにおいてこれら新約聖書がつむがれていったことに今一度心を留めたい。
それゆえ新約聖書とは、旧約(神の言葉)の現実に軸足を置く人々が、イエスの言葉(聖霊、「わたしが愛したように」)によってイエス像をつむいだものと云えるのではないか。 または「イエスとは何者かと問う作業」を人生の課題として旅へと歩みを起こし、継続してきた事実であると云えるのではないか。もしこのことに同意するなら、今ここで聖書(ルカ福音書)を聴く者は、自己満足の中にイエス像を閉じ込める事は許されないだろう。日本人であっても、「この現場に」イエス像を形作り、イエスの霊によって「生きろ!」と宣言したり物語る「使命」というものがあるのではないか。
やもめの悲しみの核である「棺に触れる(当時の律法に違反)」イエス様の接近の出来事をわたし達の驚愕の物語としたい。福音書の人々が「我々の間に現れた(立ち上がった)」と、いわゆる「イエス様復活用語」で表現したように、わたし達もこの「資本主義という旧約聖書」から日々「復活物語という新約聖書」をつむぎ出し、分かちあっていきたいものである。