執事 アントニオ 出口 崇
良き羊飼いの主日
毎年、復活節第4主日は、「良き羊飼いの主日」と呼ばれ、ヨハネ福音書10章の羊のたとえが読まれます。今年(C年)の箇所も、ユダヤ人とイエス様との議論の中で、羊と羊飼いとの正しい関係について触れています。羊飼いであるイエス様と、従う私たち一人ひとりとの関係として読むことができますが、自分自身が「わたし(イエス様)の羊」と言われているような羊であるかと考えれば、どうも難しい。「わたしの羊」に自分は入っていないのではないかと思ってしまいます。
「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らは私に従う」
イエス様の声を聞き分ける、イエス様の声って聞いたことがない。イエス様は私のことを知ってくれているだろうが、私はイエス様にちゃんと従っているだろうか。
神学校に入学する前に「召命」ということについて悩んだ時期がありました。牧師になりたいという思いはあるが、はたして自分がイエス様から呼ばれているかどうか、というと全く自信がない。「なりたい!」と口に出して言えない自分がいました。出来ることなら誰かに「神学校行きなさい」「牧師になりなさい」と強引に背中を押して欲しい。なんだか煮え切らない気持ちが続いていました。
ある牧師さんに相談に行くと、そんな私の気持ちを察してか、「呼ばれているかどうかなんて神様にしか分からん。けど呼ばれているとしたらどう答える?」と逆に問われ、その時初めて「行きたいです」と答えました。
いまだにイエス様の声を聞き分けてはいませんが、自分の意思で「行きたい」と思ったからこそ、今まで何とか続けているのだと思います。
「わたしは彼らを知っており」
イエス様が私たちのことを「知っている」というのは、「いつも見ている、見守っている」とか、頭でわかっている、個人情報を知識として持っている。と言う意味ではなく、関わりによって「知っている」。つまり、私たち一人ひとりと出会い「深く関わってくれている」ということです。
私たちの側から、イエス様の声を聞き分ける、イエス様に従うということは難しいですが、イエス様は私たちのことをちゃんと知っており、常に語りかけてくださっている。
関わりを通して聞こえてくるイエス様の「声」に心を向けていきたいです。