主教 ステパノ 高地 敬
ほんの少しちゃんと変わるための大きなお恵み
私たちは大斎節の間、自分を振り返り、神様の恵みを振り返り、自分の罪を悔いて、主のご復活をお迎えする心の備えをします。イエス様が私たちの罪のあがないとして死んでくださったそのお恵みに価する者であるように、私たちは心を清くして自らを整えます。
罪を悔いるといいますと、たいていはだれかとけんかをしたとか、あの人の話をちゃんと聞いてあげなかったとか、人に迷惑をかけたとかいうことを思い浮かべるのだと思います。これらはもちろん反省すべきことなのですが、自分を少し振り返ればすぐにいくつか気がつくことです。神様はそれくらいのことを私たちに振り返らせるために、大切なイエス様をこの世に遣わして苦難を受けさせられたのでしょうか。神様が私たちに求めておられる悔い改めは、もう少し違ったことなのではないかと思うのです。
人とけんかしてしまった。これからはけんかしないように性格を丸くしていきましょうと考えるとき、私たちは今の自分の延長上に、「もっといい自分」を置いていないでしょうか。自分は全然変わらずに、なんとなく反省して言動を改める。私自身、こんなことを今まで何度も繰り返してきたように思います。でも、これでは状況は何にも変わらないということもなんとなく知っています。もっとちゃんと自分が変わらなければ、イエス様をこの世にいただいた意味がありません。
罪とは、人に対するものであり、神様に対するものでもありました。ですから罪を悔いるとは、神様が自分に働きかけてくださることを拒否してしまう自分を振り返ることです。神様は、私たちが神様のお支えのもとに変わることができるように、私たちに働きかけてくださっています。これに対して、自分が変わることを拒否したり、これまでの自分に留まろうとしたりすることが罪だったのではないでしょうか。
こんなことを書いている私にも、自分がちゃんと変わることはとても難しいことで、今まで一度もできていないのだと思いますが、神様がそのように促しておられることをとにかく受け留めることはしたいと思います。この促しを受けてもなかなか期待されているようにできませんが、そんな自分が神様に「それで構わないよ」と言っていただいていることを思い、いつかその日が来ることを期待したいと思います。
自分が劇的に変わることはほとんどあり得ないと思うのですが、少しだけちゃんと変わることだったらありそうな気がします。「とにかくあんたら今のままでいいよ。だけど、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ頑張ってみないか?ほんのちょっと、勇気を出してみないか?」神様の呼びかけの声が響いてきます。このような神様の促しを受け止めるときにはいつも、私たちにとっての大きな復活のチャンスが与えられておりました。