司祭 エッサイ 矢萩新一
「十字架の愛」【ルカによる福音書23:1−49】
桜の花もそろそろ咲く頃でしょうか、今日は復活前主日、棕櫚(しゅろ)の主日です。今週1週間は聖週と呼ばれ、人々に歓迎されエルサレムに入城してから、十字架の死と復活に至るまでのイエスの受難を覚えて過ごします。礼拝の始めに、「イスラエルの王ダビデの子にホサナ」「ほめたたえよ、主のみ名によって来られる方を、いと高きところにホサナ」と唱和し、しゅろの十字架を携えて聖堂の中を練り歩く習慣があります。「ホサナ」とは「ばんざい」という意味です。当時のエルサレムの人々も、このように掛け声をかけ、道にしゅろの葉っぱや自分の上着を敷いて大歓迎しました。そんな熱烈な歓迎を受けたイエスは、戦車である馬車や権威の象徴である馬に乗ってではなく、苦役の象徴であるロバ、それも子ロバにのってエルサレムへと入ってこられました。そして、一人一人の人間が本当に大切にされるようにと教え、人々と関わられました。しかしその結果、人々のねたみを買い、十字架への道を歩むこととなって行きます。私たちキリスト者は、苦難と罪の象徴である十字架を掲げて歩んでいることをまず覚えたいと思います。
今日の福音書は、十字架の死へと向うイエスについて記されています。人々からののしられ、ほとんど味方になってくれる人はいません。しかしイエスは自分の苦しみを言葉に出して訴えることはしませんでした。人間として耐えられないほどの苦しみの中にあったはずですが、それを表に出さず、むしろ悲しむ女性たちを慰め、自分を十字架の木に釘打つ兵士達のために赦しを願い、自分の罪を認めるもう一人の犯罪人に対して「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と救いを保証しました。
自分の苦しみを訴えず、逆に周りの人々を気遣って慰め、励まし、希望を与えるのがイエスです。ここにイエスの示す愛があります。私たちの掲げる十字架はこのイエスの愛です。
イザヤ書の52章と53章に「苦難の僕」という見出しが付けられた箇所があります。イエスの十字架への道はまさにこの「苦難の僕」としての姿でした。イエスの生涯は自分自身の苦しみよりも、他者の命を生かす為の歩みでした。弟子たちは生前イエスが3度も予告したにもかかわらず、「人の子は苦しみを受けて十字架に付けられ、3日目に復活する」という言葉が理解できないでいました。すべてのことが終わり、イエスの姿が見えなくなった時、十字架の死は私たちの罪を担い、平和と赦しを与える為であったことを理解し始めました。
私たちの生きている現代社会は、ねたみや欲望、そしりや誤解が渦巻く世界です。昨年、以前沖縄を訪れたとき、イラクへ人間の盾として現地におもむき、劣化ウラン弾で被爆した人々に医薬品を届けられた、平良夏芽牧師に基地を案内して頂き、お話をお聞きしました。その話しの中で、アメリカを中心とした「テロ」撲滅というプロパガンダがあるけれども、私たちが「テロリスト」と呼んでいる人たちの多くは、兵士や革命家ではなく、一般市民であると言われました。アメリカのイラクへの爆撃によって、愛する家族が目の前で木っ端みじんに吹き飛ばされた人が、怒りとやるせなさで爆弾を抱えてアメリカの施設へ身を投じたことは、ほとんど伝えられていない。アメリカは、石油欲しさに大量破壊兵器だ、テロだといいように利用し、多くの人はそれに踊らされているのだということを知りました。イエスを十字架に付けた群集や祭司長、律法学者たちと何ら変わりの無いことを私たちはしているのだと気付かされた経験でした。基地の移設に反対する「おばぁ」たちは「自分たちが生まれ育ったこのきれいな海を埋め立てて基地にするくらいなら、海に入って座り込んで死ぬ」とまで言われます。そんなことまでしなくても、と思われるかもしれないが、それは自分たちの為ではなく、これからの未来を担っていく「あんたたちの為でしょうが」ときっぱりと言い切られます。沖縄には「命どう宝=命こそ宝」という言葉があります。
神さまから愛されている一人一人命をどう守っていくのか、それぞれに与えられた命をどう活かしていくのかということが問われています。
イエスの十字架での死はその最も大きなしるし、愛でありました。十字架は愛です。わたしの一番好きな聖句で、コロサイの信徒への手紙の中に、「愛はすべてを完全に結び合わせる、帯である」という言葉があります。「愛はすべてを完全に結び合わせる、帯である」一見敗北のように見えるイエスの十字架は、愛という帯によって勝利へと導く力でありました。その同じ十字架を私たちも見つめ、自らの弱さや罪深さという十字架を背負って生きようとしていることを今日の福音書から学びたいと思います。
この十字架の愛は、人間の生き方を大きく変える力を持っています。その十字架に献げられたイエスの体であるパン、私たちのために流された苦難の血であるぶどう酒によって、強められる聖餐式が与えられていることを心から感謝したいと思います。私たちも、この一年、棕櫚の十字架を携え、自らの命を奉げてイエスの十字架の愛を示していける者でありたいと願います。