2010年2月21日  大斎節第1主日 (C年)


司祭 テモテ 宮嶋 眞

 今週の水曜日から、教会では大斎節(たいさいせつ・40日間と言う意味で四旬節と呼ぶ教会もある)という期節が始まります。イエス・キリストがその使命を果たすために40日間荒野で断食され、悪魔による試みを受けられたことに起源を持ちます。始めの頃は、イースター(復活祭)に洗礼を受けようとする人や、悔い改めの必要な人のためにもうけられていましたが、そののち、教会員全員が守るようになりました。
 この起源となった荒野での断食と誘惑の記事が、今日の聖書の箇所で、マタイ、マルコ福音書にも記されています。それによるとイエスは「霊」に導かれて荒野を引き回され、そして悪魔の誘惑を受けたとあります。
 悪魔とは一体何なのでしょうか? 私たち現代人は、昔の人に比べると、悪魔というものをあまり身近に感じることがなくなってきているように思われます。大きな原因は、昔に比べ、暗闇がなくなりつつあるからだと思います。上空の人工衛星から送られてくる写真を見ると、日本上空は特に、海上までたくさんの明かりに照らされて、日本列島がくっきりと浮かび上がっています。かなり山の中に入っても、その山の端にボーっと町の明かりが見えるのが通常でしょう。そのおかげで満天の星空からも遠ざかってしまっています。
 悪魔を身近に感じられなくなると同時に、現代の私たちは、対極である神を感じることも弱くなったように思われます。イエスが悪魔と40日間も格闘されたのは、その対極である神を強く思っていたからこそ起こったことだと考えられます。この悪魔と言う言葉は、「ディアボロス」というギリシャ語が使われていますが、「間(あいだ)に投げ込む」という意味があり、おそらく、神と人の間に何かを投げ込むことで、そのあいだの関係を引き裂こうとすることからきているようです。イエスが、その宣教活動の始めにこの試みを受けられたのは、悪魔がイエスを神から引き離そうとする試みに耐えることで、自身の宣教への使命を再確認するためでした。
 私たち現代人は、これほどはっきりと悪魔の存在を感じられないかわりに、漠然とした不安感のようなものは非常に強く感じられるのではないでしょうか。しかしそれもまた、神からわたしたちを引き離そうとする悪魔のなせるわざと受けとめることができます。
 同じような困難や苦難に出合ったとして、例えば、避けられない「死」を前にして、不安に押しつぶされそうになる人もいれば、その中でも神を思い、しっかりと歩み続けることができる人もいます。その一つの出来事が、その人を強め、さらに神への信仰を堅くする場合、その出来事は神からの「試練」であったといえます。逆に、そこで動揺してしまう場合は、悪魔の「誘惑」に落とし入れられたことになります。同じような出来事が「試練」になったり「誘惑」になったりします。この世を生きる私たちは、様々な出来事にぶつかりますが、それを神からの「試練」と受け止めるか、悪魔の「誘惑」としてしまうかでは大きな違いがあります。結局は普段の生き方の中で、どれだけ、神を思うことができるかにかかっているように思われます。
 この聖書の箇所の最後に「悪魔は、あらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」と書かれています。様々な試みを、イエスは乗り切っていったのですが、それでも悪魔は諦めず、再び誘惑するチャンスを待ったということでしょうか。映画のエンディングで、すべてのことが解決したように見えて、しかし、悪魔の姿が最後にチラッと現れるようなシーンを思い出します。
 しかし、冒頭に書きましたが、この悪魔の試みは、霊によって導かれたものです。この霊は神の「聖霊」です。全ての試み、悪魔の誘惑と思えるような出来事も、神の聖霊の支配の中にあることを確信したいと思います。それらは、神からあたえられる「試練」であって、わたしたちをなおも神への信仰へと強めてくれるものなのです。