2010年2月14日  大斎節前主日 (C年)


司祭 バルトロマイ 三浦恒久

イエスの死への旅立ちと復活と天への旅立ち【ルカによる福音書9:28〜36】

見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。  (ルカによる福音書9:30〜31)

 もう五十年以上も前になりますが、わたしが住んでいた村のはずれの空き地に、ある日突然、テントが建ちました。親友の鉄男君が、なんだか面白そうだから見に行こう、と誘ってくれました。他にも友達と連れ立って、当時小学三年生の腕白坊主たちは出かけていきました。
 わたしたちを出迎えてくれたのは、若いアメリカ(?)人でした。その日から、青年とわたしたちの短い交流が始まりました。今にして思えば、青年はキリスト教の宣教師だったのです。スライドを見せていただいたり、歌を教えていただいたり、とても新鮮で、夢があって、あこがれをかき立てられるような時を過ごすことができました。
 わたしたちは青年を「アーメンさん」と呼びました。しかし、「アーメンさん」は一週間ほどして、テントをたたみ、風のようにどこかへ旅立っていきました。わたしの胸の中に、まだ見ぬものへのぼんやりとしたあこがれを残して・・・。

 イエスは弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねた時、ペトロが「神からのメシアです」と答えました(ルカ9:20)。そこでイエスは、ご自身の死と復活を予告し、《神からのメシア(キリスト)》は受難のキリストであると明かされました(ルカ9:21〜27)。
 それからイエスは、祈るために山に登られました。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服が真っ白に輝きました。見ると、モーセとエリヤがイエスと語り合っていました。モーセとエリヤは栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していました。

 この山上での変容の出来事は、イエスの受難と復活が、モーセ(律法)とエリヤ(預言者)に代表される旧約において表された、神の計画の実現を明らかにするものでした。また、この変容の出来事は、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる《最期》(エクソドス)の始まりでもありました。この変容の出来事のあと、イエスはエルサレムに向かう決意をされます(ルカ9:51)。そして、《最期》(エクソドス)とは「出エジプト」のことであり、イエスの死への旅立ちを通しての復活と天への旅立ちを表しています。

 あの青年はきっと、「出エジプト」の旅人のひとりだったのでしょう。キリストをまだ知らない人に、キリストを出前するためにテントをたずさえて、旅立ちを重ねていたのでしょう。
 また、あの青年はイエスと共に旅をする者でもあったに違いありません。イエスの死への旅立ち、そして復活と天への旅立ちを覚悟とあこがれをもって受け入れ、イエスを希望し、イエスと共に旅立ちを重ねていたのでしょう。

 今わたしは、あの青年がわたしの胸の中に残していった、まだ見ぬものへのぼんやりとしたあこがれを大切にして生きています。まだ見ぬものへのぼんやりとしたあこがれが、はっきりと見えるようになることを希望して・・・。