2010年1月10日  顕現後第1主日 (C年)


司祭 ヨハネ 黒田 裕

イエスの受洗 〜“向こう”から到来するもの【ルカ3:15-16、21-22】

 もう何年も前のことになりますが、国立博物館に大レンブラント展を見に行ったときのことです。チケットを買おうと売り場に近づくと、突然、全く知らない年配の女性から声をかけられました。振り向くと、「これ、使ってください」と余っているらしいチケットを手渡されたのです。後で知ったことですが、こういうことは展覧会では、ままあることのようですが、とにかくタダで入ることができて、とても得をしてしまいました。
 ところで、絵のほうですが、さすがに本物は想像以上の素晴らしさでした。当たり前なのかもしれませんが、質感が圧倒的に印刷物と違います。レンブラントといえば「光と影」が一番の特徴として有名ですが、それだけではなく、肖像画などの人物が身に着けている装身具(ネックレスなど)が本物のように立体的に見えて、だまし絵的な面白さがありました。なかでも目を潰されるサムソンを描いた絵は圧巻で、画面のなかが大きく動いているように見えたのですが、とりわけ、右手に大きなハサミ、左手にサムソンを騙して切り取った髪の毛の束を持って、その場を立ち去りつつ振り返って不敵な笑みを浮かべているデリラの表情に釘付けになってしまいました。えもいわれぬ冷たさ、冷酷さで、背筋がゾクッとしてくるほどでした。
 それにしても一枚の絵によって、これだけ心がいろいろと動かされるというのは考えてみるととても不思議なことです。そして実は、今回は、その辺りのことをとりあげてみたいのです。というのも、私たち現代人は、「向こうから語りかけてくるもの」を感じ取ることが益々できにくくなってきてしまっているように思えるからです。
 絵を見て何かを感じるというのは確かに「私」の感情の動きであり感受性の問題と言えます。しかし、絵がこちらに働きかけてくる、としか言いようのない事態というのもあるのではないでしょうか。それは何も芸術に限りません。日常の生活のなかで見るもの、聞くもの、触れるもの、接するもの全てがそのような可能性に向かって開いているといっても過言ではないように思えるのです。
 例えば、家庭生活で言えば、幼子の存在がそうです。生まれたばかりの幼子は、当然のことながら夜泣きやお世話が本当に大変で、そのあたりで親が疲れるのは確かなのですが、一方で不思議なことに、この無力で弱々しい赤ちゃんの存在そのものが私たちに働きかけてくる。大人を力づけ、励まし、慰め、支え、守っているとすら言えると思うのです。これはとても不思議なことですが、子育てを通して、実際そう感じたことでした。
 そして、ここから考えると、幼児や児童をとりまく様々な問題は、もしかしたら、子供たちを単に、保護の対象、世話をしてやる対象、としか見ていないところからきているのではないかとも思えるのです。その存在そのものが、大人に、目に見えない何かを与え、大人を支えてすらいる、という側面が抜け落ちて、極端に言えば、大人にとって対象物にしか見られなくなってしまっている、そこにも原因があるのではないかと思えるのです。
 恐らくこれは、あらゆる事柄に対する、陥りがちな現代人の態度るといえるのではないでしょうか。相対しているものを、自分が何かしてやる対象、操作する対象、解釈してやる対象としか見られなくなっていて、それ自身がこちらに語りかけてくるものが見えなくなってきている。向こうからやってくるものを、感じ取れなくなってきているとはいえないでしょうか。
 そんな現代人の私たちの状況に、聖書のみ言葉はこのように語りかけてきます。
 (イエスさまが)「洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(10〜11節)
 この出来事が現象としてどのように起こったかは別として、イエスさまは確かに向こうからやってくるものを見て、聞いたのでした。このことから、洗礼の大きな意味に気づかされます。洗礼は、新たな人生の出発点ですが、その新たな出発とは、それまで対象と思っていたものを通して、あちらから到来するものを見聞きしようとする新たな人生が始まる、ということではないでしょうか。―先ほどのレンブラント展で、チケットが「あちらからやってきた」からこう言っている訳ではありませんよ…。
 さて、さらに、向こうから私たちのほうへとやってきてもたらされるものだけに、それは人為的なものではなく、また単に自分の意思による選択でもなく、私たちは神さまによって探し出され、ある意味「選ばれた」と言えるのです。
 私たちは、今日のイエスさまの姿から、洗礼の意味をもう一度とらえ返したいと思います。そのとらえ返しをする際、私たちが周囲から、いかに多くの語りかけやメッセージを受け取り、いかに多くの人々や物事によって与えられ支えられているかに気づけるはずです。その時に私たちの生活の質は変化しはじめ、新たな生が動き始めるのではないでしょうか。