司祭 パウロ 北山和民
…「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分け与え、食べ物を持っている者もおなじようにせよ」と答えた。(ルカ3章より)
ルカ福音書を通して招かれる、降臨節は二つあります。旧約聖書を通して生きておられる神が、特定の時と場所で「受肉」した「一度だけの降臨」。
もう一つはわたし達の歴史に介入され、「再びキリストは来られる」という「繰り返す降臨」です。
先週から今週に続くルカの記事は、「チィベリウス帝の15年、ヨルダン川地方のヨハネに…」と特定して、ジャーナリストの記事のようです。
では、この記事が今この私に、この地に主が来られるという「繰り返す降臨」に招くのはなぜなのでしょう。
キリストの出来事が歴史的に一回きりであるという信仰は逆説的です。ルカはクリスマス物語を二人の「子を宿すはずのないふたりの女(エリサベトとマリア)の物語」から始めています。そして「マリアは出かけ….エリサベトにあいさつした(1:40)」。つまり不安と痛みをかかえた二つの霊が互いにあいさつを交わすとき、こんな出来事はいつも私の場所にも起こる出来事なのだとわたし達を巻き込む、大いなる逆説なのです。
ヘンリー・ナウエンは「サクラメンタルな生活とは、強いときに愛を分かち、弱いときに愛を受ける出来事がいつも起こり、継続していくと信頼する生のことを意味する」と言います。そして「聖なる出来事」とは(当然厳粛な気分にするが)、自己の不安を取り消し、わたし達は「分かち合いへと転換できるか」という問いを感じるように勇気付けられるのだと述べています。 まさに今日の「ヨハネとの問答」なのだとわたしは思います。クリスマスという「神がまず分かち合いを示された祭」をわたし達は迎えるのだと、このときしっかり自覚しなければなりません。つまり今この時代、この場で「分かち合いに失敗している」出来事を見分け、問われる人間へと招かれているのです。
主体的な「分かち合い」への転換こそ「悔い改め」であり、「罪のゆるし」であると本日の福音書は語ります。 祈りを豊にしながら感謝賛美のクリスマスを迎えましょう。