2009年12月6日  降臨節第2主日 (C年)


執事 ヨブ 加納嘉人

心を備えて待つこと【ルカによる福音書第3章1−6節】

 わたしは1961(昭和36)年生まれの48歳です。わたしが子どもの頃には、子ども向けのテレビ番組は少なく(テレビ番組全体が少なかったでしょうけれど)、友達は同じマンガ(アニメ)やヒーロー物(ウルトラマンや仮面ライダーなど)の番組を見ていたものです。今はたくさんの番組があり、子ども専用のチャンネルさえ存在します。ずいぶん時代が変わったなぁ、と思います。
 ともあれ、わたしは今、自分の子ども時代を思い起こしています。何曜日の何時、何チャンネルで(たとえば)「巨人の星」が始まる、となりますと、何分も前からチャンネルを合わせ、テレビの前に座ってわくわく・どきどきしながら待っていたものです。番組が始まる直前にはわたしの頭の中に巨人の星の主題歌が流れ始めるほどです。脳内に流れる曲と、実際に始まって流れる曲の音程に寸分の違いはありません。聖歌の歌い始めの音はよく間違えますが、テレビアニメの主題歌に関してだけは絶対音感があったものと思います。(余りほめられませんね)わたしが言いたいことは、それほどわくわくしながら、その番組が始まるのを、始まりの時を、心を備えて待っていた、ということです。時間になった、さあ、始まるぞ、いつものコマーシャルや・・・。チャーンチャチャチャチャッチャ・・・
 降臨節を迎えました。わたしたちは主の降臨(降誕・再臨)を待ち望んでいます。今、わたしたちはどんな気持ちでいるでしょうか。わたしたちが子どもの頃の、好きなテレビが始まる前のような、わくわく、ドキドキした気持ちでしょうか。それとも、「ええっ!!もうクリスマスかいな、早いなー、忙しなるなぁ、しんどいなぁ」、と気がせいて、胃が重くなるような気持ちでしょうか。
 さて、今週の聖書はルカによる福音書第3章1−6節です。救い主イエスさまが来られる前に洗礼者ヨハネが活動をします。福音書記者ルカは、人間の歴史のなかに起こった、神様の救いの時、救いの働きを表現しようとしているようです。最初に、時の王様や支配者、大祭司の名前が挙げられます。西暦のない時代のことですから、このことが起こったのはいつのことなのかをあらわすのにこの方法が用いられたようです。ここに挙げられているのは有名な人たちばかりですから、何年前、などと言われるよりも、当時の政治的な様子・歴史的な背景がよくわかったのでしょう。そして、旧約聖書の預言者たちと同じように、ヨハネに神様の言葉が降ります。最初に書かれた、たくさんの政治家や宗教指導者などの有名人、その時代を代表するような人たちにではなくて、神様の言葉が降るのは、荒れ野にいる名もない預言者、ヨハネだったのです。神様の救いの働きは、いつもささやかな始まり方をするように思います。特にイエスさまの物語は、貧しい人、病気の人、悪霊に取りつかれた人、異邦人、主を理解できない弟子たちなど、小さくされた人々との、個人的な出会いから始まることが多いのではないでしょうか。神様の救いのわざを、今、ヨハネは自分の身をもって実感し、人々に告げようとしています。
 「悔い改めよ。時間になった。さあ、始まるぞ。神様の救いの出来事が。」
 ヨハネは救いを告げました。もうすぐやってくる主のご降誕・クリスマス。それは世界中に喜びをもたらす、神様の救いの出来事です。神様の救いは、すべての人に及びます。わたしたちも、小さくされた貧しい姿のイエスさまから、世界中の救いが始まることを、その救いの働きがわたしたちにも起こっていることを、ヨハネが実感したように実感し、どきどき、わくわくするような気持ちで心を備えて待ちたいと思います。 主に感謝。