2009年11月29日  降臨節第1主日 (C年)


司祭 サムエル 門脇光禅

「マラナタ:主よきたりませ」【Tテサロニケ3章から】

 父と子と聖霊のみ名によって アーメン
 教会の暦では降臨節(アドベント)といい、イエスさまのご降誕を準備する新しい年が始まりました。アドベントの季節はクリスマスを準備する大切な期間なのですが、街中は年末ということもあって何かと気ぜわしく、年末商戦の騒がしさも相まって本来的な主のご降誕の心備えが後回しなってしまいそうな感がします。本日の使徒書を読みますとテサロニケという町のキリスト教信徒に対する迫害を気がかりなパウロがテモテを遣わし様子を知ることができてその内容に喜ぶ姿が書かれています。迫害の中にあって艱難に耐え信仰を守る姿に逆に慰め励まされたパウロだったようです。信仰生活をすれば生活が楽になるなら誰でも信仰をもつでしょう。信仰しても苦しみが無くなるどころかかえって増えたら、もう止めようかと思うことがあります。これが誘惑かも知れません。十字架を担って歩むものにはつきものです。ではなぜ私たちは福音を伝えるのでしょうか。第一は神さま側から近づいてくれる愛を知って、自分を愛し自分の罪のために死んでくださったイエスさまを伝えなければならないという衝動かも知れません。そのような神さまの愛を思うとき自分に訪れる艱難や他の人の優雅な生活は問題ではなくなるような気がします。もう一つは「わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、」3:13つまりイエス・キリストの再臨です。私は再臨・世の終わりというものがないならキリスト教信仰が成り立つと思わないのです。私たちの望みは終末・再臨のときイエスさまから「よくやったね」と言っていただくことにあるのではないでしょうか。その約束を信じるからこそ私たちはイエスさまと共に十字架を負っていくことを喜ぶのだと思うのです。主が再びきたりたもうことは、聖書の焦点だと思います。このことを信じなければ信仰は行き詰まります。でもこのことは私たちの経験や知識では推し量れないものでもあります。有名なラザロの復活の話でイエスさまは「あなたはこれを信じるか」ヨハネ11:28と言われます。ラザロが死んだという悲しい世界で命の君が来られたことを信じるかというマルタへの問いかけは同時に私たちに問いかけられていると思うのです。現実の悲しさ、人間の哀れさを味わうこの世界に「先生がいらして、あなたをお呼びです」ヨハネ11:28と告げられたことは新しい復活の世界が来たという意味でしょう。そのような意味で主の再臨を待ち望むことにおいて信仰生活が成り立っているといえるでしょう。本書3章3節の言葉に「わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。」ある意味において艱難で行き詰まったとき初めて私たちの近くにイエスさまがいてくださっていたことに気がつくのではないでしょうか。「自分の世界が終わったところから神さまの世界が始まる」といわれます。自分の世界に自信を持ち、私たちが何かに頼っている間は側に近寄ってくださっている神さまに気づかないのではないでしょうか。こうすればいいああすればうまくいくとどこまでも人間の力と可能性を信じてその範囲の信仰生活ならばそれは世俗信仰であって、いつまでも神さまに気づくことはないと思うのです。自分には何の可能性も無いがただただ神さまの約束を信じて一切をかけて生きるところに豊かに顧みたもう神さまとの出会いがあると思うのです。すばらしいアドベントでありますようお祈り申しあげます。主に感謝。