執事 マタイ 出口 創
以前に見たテレビアニメの中のセリフに、「私が不自由なのは、多くのものを抱えているからだ」というものがありました。何かを抱え、背負い込む事によって人はどんどん不自由になって行き、逆に何かを失い、捨てることによって人はどんどん自由になっていくようです。
『真理はあなたたちを自由にする』。世界聖公会(アングリカン・コミュニオン)のロゴマークであるコンパス・ローズの中にもギリシア語で記されているヨハネによる福音書8章にある聖句ですが、『真理』つまりキリストはあなたたちを自由にする。キリストは私たちが抱えているものを失わせることによって自由にする、そのようにも読めるのかも知れません。私たちが抱え、背負い込んでしまっているもの、私たちが大事だと思い込んで絶対に自分から手放そうとはしないもの。命、金銭、不動産、健康、そしてかつての栄光や成功体験・・・ これらを大事だと思い込んでいるこれらを抱えることが、逆に私たちをがんじがらめに、不自由にして『真理』から遠ざけている。これは個人であっても、共同体であっても同じかと思います。『真理はあなたたちを自由にする』。何かを更に得ようとすること、あるいは既にあるものを必死に守り通そうとする事は、私たち自身を『真理』から遠ざけ、逆に今あるものを捨てることが私たち自身を『真理』に向かわせると言えると思います。
「何をしてほしいのか」。先週の福音書と今日の福音書で、イエス様は同じように問います。先週は、弟子のヤコブとヨハネの兄弟に、今週は盲人で物乞いのバルティマイに。先週のヤコブとヨハネは、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人を右に、もう一人を左に座らせてください」でした。これは更に得ようとする願望と言えるでしょう。それに対して今日のバルティマイは、上着を脱ぎ捨ててイエス様の元に行き、「目が見えるようになりたいのです」と願いました。一見、目が見えるようになるという願望は、更に得ようとする願望ではないないのかと思うかもしれませんが、これは「再び見えるようになる」という意味と同時に、「見上げる」という意味もあります。つまりかつては見えていたけれども失ったものをもう一度回復したいという願望なわけです。私は神様を失いました。けれどももう一度神様を見上げたいのです。「先生、目が見えるようになりたいのです」。バルティマイのこの一言にはこのような意味があったのです。
それもただもう一度神様を見上げたいなぁ・・・というような漠然とした願望ではなく、必死に切望していることが、「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスの所に来た」と書かれていることからも分かります。
盲人であり、同時に物乞いであったバルティマイです。財産と言うにはあまりにも貧しいその所持品は、恐らくその時身に付けていた衣服だけであったと想像できます。つまり唯一と言っても良い彼の所有物すら捨てて、もう一度失った神様を見上げることを切望していたと言えます。文字通り、全てを捨てて、イエス様からのみ恵みを受けることを決断したのです。
私たちは今、『自由社会』という社会を生きてはいても、本当に自由なのでしょうか。バルティマイのように自由に、「本当に必要なただ一つ」(ルカによる福音書10:42)だけを選び取るために他を捨てる決断ができるほど身軽なのでしょうか。