2009年10月11日  聖霊降臨後第19主日 (B年)


司祭 エッサイ 矢萩新一

「あなたには欠けているものが一つある」【マルコによる福音書10:17−27】

 今日の福音書の箇所は、京都教区の「針の穴計画」のもととなっている所です。実現可能な小さな目標を各教会で立てて実行していきましょうという主教提案の計画です。金沢の「針の穴計画」は、「礼拝を豊かにする歌や所作を取り入れる」「子どもといっしょに聖餐式をする」「他教会、他施設と手をつなごう」の3つです。この目標が3つあると言うことは、今の教会に欠けているものが3つ以上あると言うことです。どれだけ完璧な人生を歩んでいるように見えても、人間には必ず欠けている部分があります。そのことを今日の福音書でイエスは指摘されました。
 熱心なユダヤ教徒のある人が、悶々とした日常生活からの開放を求めて大きな決断をし、イエスのもとへ走り寄って、ひざまずき、敬意をもって「善い先生」と呼びかけて尋ねました。その願いは真剣で、敬意を込めたものでありました。それは、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいか」という問いでした。律法を守ることだけでは満たされない、大きな不安が彼を襲っていたのだと思います。しかし、イエスは「なぜ善いというのか、神おひとりのほかに善い者はだれもいない」と、彼の敬意を受け入れませんでした。「永遠の命を受け継ぐ」ということは、社交儀礼や律法の順守によって、道が開かれるものではないことを示されます。
 イエスはその男に向かって「あなたに欠けているものが一つある」と言われます。これは、厳しい言葉のようでありますが、「彼を見つめ、慈しんで言われた」とあるように愛の眼差しを持った指摘でした。彼の人生は、たくさんの財産に囲まれ、何不自由なく生活し、不法も犯さず、まじめ一筋なものであったと思います。しかし、彼の信仰は、その無難さに留まったものとなっていました。自分の生き方が、自分自身にしか感心を寄せない生き方、神さまの愛と平和へと目が向けられていなかったのではないでしょうか。「永遠の命を受け継ぐ」信仰とは、形式的で内向きな姿勢からは生まれてきません。人と人との関わりの中から、人間の奥深いところから生まれてくるものです。それゆえに、その男の生き方を根底から揺さぶり、見つめ直す必要があると判断したイエスは、「もっている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と慈しみをもって言われたのでした。しかし、彼は生き方を変える勇気が持てず、悲しみながら立ち去ってしまいました。彼が悲しんだのは、イエスの愛の眼差しを感じ、イエスに従うことが永遠の命への道であることに気付いていたからだと思います。しかし、何も言わずに「立ち去る」ということによって、大きな葛藤から逃れ、無難な人生を歩んでいくことになります。生き方を変えるという決断には勇気がいります、しかしそれは「欠け」ているところのある人間の力でなせることではなく、神さまの助けによってなされていくものであると、イエスは弟子たちに教えます。
 先ず、私たちはイエスから、「あなたには欠けているものが一つある」と、愛の眼差しで問いかけられていることを自覚したいと思います。金持ちの男は、自らの「欠け」を認めようとせず、逃げてしまいました。しかし、私たちには「欠けている」と見える、弱い部分にこそ、神さまの働きがあることを信じていきたいと思います。弱い部分があるからこそ、隣人の助けに敏感でいられますし、神さまに従う謙虚さが沸いてくるのだと思います。
 秋になると木々の葉っぱの色が赤や黄色に変わり、その葉っぱを散らせて、生きるエネルギーを実や種に注いで行く姿は、永遠の命を受け継ぐ生き方に近いように思います。
 そのことを、星野富弘さんの感性から学びます。手足の自由を失ったという、5体満足な人間から見れば「欠け」ているように思える所から、見えてくるたくさんのすばらしさに心動かされます。
 星野さんの「もみじ」という題名の詩の一節です。
    「両手に握っているものをはなさないで
    なぜ新しいものをつかもうとするのか
    もみじだって あんなにきれいな葉っぱを
    手ばなしているというのに」
    「両手に握っているものをはなさないで
    なぜ新しいものをつかもうとするのか 
    もみじだって あんなにきれいな葉っぱを
    手ばなしているというのに」
 たくさんの落ち葉を見て、ああ掃除しなければ…としか思えない自らの「欠け」を思わされる詩です。
 針の穴を通るには、何かを手放すこと、頑固なこだわりや、偏りを捨てること、欲張りな心から解放されるということからしか始まらないのだということを、今日の福音書から学びたいと思います。