2009年9月27日  聖霊降臨後第17主日 (B年)


司祭 クレメント 大岡 創

「あなたは神の国に招かれている」【マルコ9:38−43、45、47−48】

 マルコ福音書の9章〜10章にかけて読み進んでいくにつれ、弟子たちに対してイエスさまの受難の記事が多くなっていきます。この箇所は受難の事実を受け入れるための弟子としての心構えを教えています。弟子を連れてフィリポカイサリアまで出かけられペトロの告白を体験、さらには誰が一番偉いのかの議論などを通して、私たちの信仰は永遠の神との関わりであることが示されていきます。さらに、「主に従うとはどういうことなのか」、を知っているはずの弟子でさえも十分に目が開かれていなかったというのです。
 今日の福音書の箇所では、自分たちには従わないけれども、勝手にイエスの名を使って悪霊を追い出している人たちがいるので、やめてほしいというヨハネの考えに対してイエスさまは「やめさせてはならない。逆らわない者は味方だ」と、とても寛容な発想をもって答えられました。
 イエスを信じる人は何もひとつのグループの中に入っている人たちだけではないのだ。弟子でなくてもその人が人の痛みを和らげようとすることは、神のみ心をおこなうことになる。その人たちが主の名によって生かされていくのならば、少しくらい自分たちの目から見て違いを感じても、それでいいではないか。とイエスさまは自分の名前の使用権などに興味を示すことなく幅の広い立場をとっておられます。ここで語られている主の業とは、教会にいる人にも、教会の外にいる人に対しても意味をもつものだというのです。
 言い換えれば「自分たちだけが真理を語っている、有すると考える組織や集団は発展せずに衰退する。」このことをイエスさまが弟子たちに教えられたのが今日の福音書です。
 さらにイエスさまの言葉は厳しさを帯びています。これらの小さな者、つまり、自分たちの組織や権威に従わない者たちをつまずかせる者は、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。・・片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい・・」(9:42−43)と延々とイエスさまの叱責は続きます。
 私たちは「雷の子」と呼ばれ激情型?のヨハネを始めとする弟子たちとは違う歩みをしているでしょうか。私たちの教会は自分たちを大切にするために、外にあまり目を向けることなく、自分たちのことで精一杯とあくせくしていないでしょうか。内に目を向けて、ことに強い信徒と無力な(弱い)信徒といった構図は教会にはないと言い切れるでしょうか。自分たちの慣習や組織を運営する上で「馴染まない者」「組織に合わない者」として排除してしまってはいないでしょうか。イエスさまの語りは弟子たちにではなく、今のわたしたちに向けられています。各人の人格の問題だけでなく、教会の在りようについても示唆されているように思います。しかし、どんな状況の中にあったとしても、多くの足りないところがあったとしても、それよりも神の国に招かれている方がよいと言うのです。だからこそ、自分の生活の中で自分自身を捧げられるように「出来得ること」を見つけ出していきたいものです。