2009年9月13日  聖霊降臨後第15主日 (B年)


司祭 ヨハネ 石塚秀司

「わたしに従いなさい。」【マルコ8:27−38】

 今日の福音書の朗読箇所には、主イエスがお弟子さんたちに十字架の死と復活について予告している場面が描かれています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と語り始められました。するとペトロは、主イエスをわきへお連れしていさめ始めました。おそらく十字架の上で死ぬメシアはペトロにとってメシアではなかったのでしょう。そしてこのことは、それまで自分が描いていたメシア像にこだわり続けて、そのこだわり続ける自分を捨てられず、主が語られたみ言葉より優先したことを意味しています。そのペトロに対して主イエスは大変厳しい批判の言葉を突きつけています。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。
 神様のことよりも、自分の思いや人間のことを優先する状況に私たち人間を陥れる力が、まさにサタンという言葉が表現しているものです。ここで「引き下がれ」と訳されている言葉は、「私の後ろに回れ」を意味している言葉だといいます。これは人間のことに捕らわれて主の前に立ちはだかろうとするペトロに対する叱責の言葉であると同時に、弟子として生きていく上で見失ってはならない大切なものを回復しようとする招きの言葉でもあると言えます。34節以下で、ペトロだけではなく群衆と他の弟子たちも共に呼び寄せて、さらに次のように話されます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
 私たちは、いろいろな場面で「自分が・・・、自分は・・・」と、自分にこだわり続けながらその自分を中心に置いて生きています。そのことによって、見えていなかったり見失っていることがどんなに多いことでしょうか。そのような私どもに「私の後ろに回ってご覧」と主は呼びかけておられます。そうすればたくさんものが見えてくる。イエス様のお姿がよく見えるようになってくる。み声が聞こえやすくなってくる。神様に造られ愛されている自分の姿あの人の姿が見えてくる。そして神様の命に生かされる信仰の道が見えてくる。このようにして、自分を捨てて主の後ろに回ることは、失ったり損をしたりすることでは決してなく、新たに得ること回復することへとつながっていくのです。このみ言葉に従って、自己実現へとつながる自己否定の道を歩んだ信仰者の姿を、私たちは多くの信仰の先人たちに確かに見ることができます。そして、あなたもこの信仰の道へと招かれています。