司祭 バルトロマイ 三浦恒久
自分を正当化するために、神を引き合いに出さない
【マルコによる福音書7:1〜8、14〜15、21〜23】
ファリサイ派はユダヤ教の一派で、イエスの時代には民衆に対して大きな影響力を持っていました。また、律法学者は律法を専門に研究し、解釈して民衆に教える教師でした。すぐれた学者は多くの弟子を持ち、最高法院の議員など、社会的に尊敬される地位にありました。学者の多くはファリサイ派に属していました。
しかし、ファリサイ派や律法学者はイエスの時代には、律法順守に拘泥するあまり、他の人々に厳しい律法順守を要求し、律法主義に陥っていました。
ファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエスの弟子たちが手を洗わないで、すなわち、宗教的な汚れを清める儀式を行なわないで、パンを食べているのを見て、イエスに抗議しました。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(マルコ6:5)。
これに対してイエスはイザヤ書29:13を引用しながら、彼らを偽善者とし(マルコ6:6〜7)、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」ときっぱりと答えました。
「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」。律法主義の危険性はおのれを神の位置に立たせ、律法を守ることのできない人を切り捨て、神の恵みから排除してしまうことです。さらには、おのれを主張する手段として神を引き合いに出し、自己正当化のために神の名を利用するということです。
イエスはそのようなファリサイ派の人々と律法学者たちを偽善者と呼びました。
イエスが十字架に挙げられた時のことです。祭司長たちや律法学者たちが一緒になって,代わる代わるイエスを侮辱して言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(マルコ15:31、32)。しかしイエスは自分を救うための手段として神を引き合いに出すことはしませんでした。自分を救えない神としてイエスは死んでいきました。
イエスの十字架は叫んでいます。あなたの信仰が律法主義になっていないか、あなたは偽善者になっていないかと。