2009年8月2日  聖霊降臨後第9主日 (B年)


司祭 ヨブ 楠本良招

「いのちのパン」【ヨハネによる福音書6章24節〜35節】

 いつ梅雨が明けるのかと気になる今日この頃である。蝉の声だけが夏のむし暑さを感じさせる。さて、教会堂と園舎の新改築も周りの足場を取り外したため、赤い屋根と薄いピンク色の壁が幼稚園らしい雰囲気となっている。初めての十字架が両壁面についているのが新鮮に思う。去る6月15日の上棟式には、私が十字架に聖書のみ言葉と施主名と施行者の名前を書いて棟に上げたことを思い返している。8月末の完成予定に向け、駐車場や門扉などについての打ち合わせが続いている。神がなさるみ業はみ心にかなって美しいとのみ言葉を思う。お祈りのうちにお加えくだされば幸いである。
 聖霊後第9主日の特定13の聖書の箇所は、イエスは弟子たちを追う群衆との対話から始まっている。イエスの周りにいる彼らはパンの給食の奇跡の出来事を思い、イエスに従いさえすれば奇跡にあずかると思った。
 彼らはパンの奇跡以上に、荒野のマンナに言及している。荒野でイスラエルの民を養ったマンナの奇跡を引き合いに出して(出エジプト記16章13節〜30節)、イエスにモーセのような偉大な指導者と重ね合わせ、彼らの前でモーセよりも大いなる奇跡を行ってみよと試みたのである。
 彼らは「苦しい時の神だのみ」ではないが、欠乏や困窮の中で得るものに目を奪われ、肝心のイエスを忘れ、ご利益主義に陥ってしまった。そこで、イエスは「あなたがたが、わたしを尋ねてきているのはしるしを見たためでなく、パンを食べて満腹したからである」と言われた。
 イエスは「わたしはいのちのパンである」と宣言したのにもかかわらず、彼らはパンのみに目を注いで、周りが見えなくなっている。イエスにそのパンのしるしを示せと傲慢にも強いたのである。
 周りが見えなくなることは今の社会でも見られる。たこつぼ論と言われるものである。蛸がつぼに入れると抜け出すことは困難で、すぐに捕らえられる。このように自分の置かれている状況を把握出来なく客観的な見方ができない。これがたこつぼ論である。
 私たちが日々汗してパンを稼ぐのは体を支えるためである。イエスは「命は食べ物より大切であり」(マタイ6章25節)と言われたように、パンよりもいのちの大切さを忘れることを指摘している。目的を忘れるところから欲求が強くなってくる。
 イエスは「わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と答えている。それでも群集の欲求は絶え間なく続いている。
 イエスは群集に必要な食物とは日常の食物のことではなく、人間を真に人間としていのちに生かす、神の賜物としてのパンのことを伝えたが、群衆はこのいのちのパンを理解出来なかった。
 今を生きる私たちにとってはイエスと出会うことによりいのちに生かされ、このからだと朽ちる食物から朽ちない永遠の命に至る命のパンを知ることが、降臨後第9主日のテーマである。
 蝉の声の合間に小鳥の声も聞こえる教会の周りの緑陰の中、イエスがカファルナウムの向こう岸で「いのちパン」について語られた聖書の言葉を黙想する。