2009年5月3日   復活節第4主日 (B年)

 

執事 ヨハネ 荒木太一

「自分のために誰かが死んだ」

 「死にたい、もうしんどい、楽になりたい。」学生のとき、わたしはいつも心のどこかでそう思って生きていました。まわりの学生が一見楽しそうにサークル活動やコンパに明け暮れるのをみると、よけい自分は無意味のように思え、生きている一日一日がつらくなるのでした。「うつ病」という分析ではどうにも言い表せない心の内側で、生きる意味を欲していたのでした。
 死にたいくらいつらいとき、そんなときには、自分はとても孤立しているように感じられます。自分が生きていても死んでいても、この世にはあんまり関係ない。こんな気持ち誰にも言えない。誰も分かってくれない。自分の命なんて太平洋に浮かぶ誰も知らない無人島のよう。海に浮いていようが沈んでいようが、まったく誰にも関係ない。それどころか、こんな自分が生きているほうが、周りのみんなに迷惑をかけているようにも感じる。
 そんなときに聞いた、このキリストの言葉は衝撃的でした。「わたしはあなたのために命を捨てる。」と教会は伝えるわけです。そんなの信じられるわけがない。しかし、しかし、もしそうならば、もし、誰かが自分の命のために死んでくれたならば、そしてその人は復活し、信仰を抱く者の心の内に生きるとするならば…この無意味な自分の人生は、意味が与えられるだろう。そう、ふと思ったのです。
 そう思っただけで、実際は信じられません。でも、これくらいの奇跡がなければ自分は生きていけない、というところまで追い詰められたとき、わたしはこの信じられないことにしがみつきました。毎夜「キリストはあなたのために死んだ」という信じられないようなことを、ベッドの上で自分の心につぶやきつづけていたのでした。それは「うつ病」という表面上の言葉では決してすまされない、心の内側のできごとです。
 キリストはあなたが生まれる前からあなたを知っており、「死にたい」と思うあなたのためにも死んでくださいました。そして復活したキリストは信じる者の心に宿り、死にたいときにさえ、また、実際に死ぬときにさえ一緒にいてくださる。これが今の私を生かしている信仰です。
 キリストの教会へお越しください。キリストはあなたのために死んでくださった。